2019 W杯・備忘録 91
~ 第1回大会決勝 ~
1987年5月22日、RUGBY WORLD CUP by KDDが始まった。あのバブルの直前、世界経済の機関車と持て囃されていた。KDDが付されていたことを記憶している人はどれぐらいいるのだろうか? グランドの周りの「立て看」にも日本企業が並んでいる。そういう時代にW杯は始まった。
29日後の6月20日、NZ・イーデンパークに48,035人の観客を集めて決勝が行われた。試合中に、カモメたちがグランドの芝を啄んでいる。そんな「牧歌的」な光景が映像に残されている。
決勝は、本命:NZ対もう一つの本命AUSを準決勝で破った北半球の雄:FRA。この当時、選手交替は、負傷によるもののみで2名まで。試合前のNZ・ハカは15人で行われた。センター・ポイントから5mほどNZ陣に入ったところで先導者(NZ・8)がリードし、残りの14人は半円で取り囲んでいる。
試合経過は次の通り。NZの得点は「○」、失点は「●」、得点を逃したのは「×」。
分 | 得点 | 種類 | 起点となった(リ)スタート | |
○ ○ × × | 13 16 25 30 | 3- 0 9- 0 | DG T+G (T) (PG) | NZのキックオフで試合開始。 FRAゴール前でのFRAボール・ラインアウトでFRAの並び方が不正常でNZにフリーキックが与えられる⇒NZ:ポイントを20m後方に下げ、9がタップキックして10にパス・10がドロップゴール。 FRA22m内のFRAボール・ラインアウト。NZがスチールして9→10。10がドロップゴールを狙うもFRA・10がチャージ⇒ボールがFRAゴール前に転がり、FRA・11が拾えず、NZ・7がトライ。10がG。 NZゴール前でのFRAボール・スクラム。スクラムが崩れるもノーホイッスルでFRA展開しタッチに押し出される。 FRA22m内のラックでラッキング。FRAのPでNZ・10がPGを外す。 |
● ○ ○ ○ ○ ○ ○ ● | 43 45 53 62 65 68 76 82 | 9- 3 12- 3 15- 3 19- 3 23- 3 26- 3 29- 3 29- 9 | PG PG PG T T PG PG T+G | ラックでNZのP。FRA・14がPG。 FRAがラインオフサイドのP。NZ・10がPG。 FRA・2がタッチジャッジの目の前で倒れているNZの選手を蹴ってP。NZ・10がPG。 FRA陣内NZボール・ラインアウトから9→10→12←13(ラック)9→10←7←9。NZ・9が走り込んでトライ。NZ・10がGを外す。 FRAのキックオフをNZキャッチしモール。NZ・9がモールサイドを駆け抜け大幅ゲイン→8→14。NZ・14のトライ。NZ・10がGを外す。 FRAのP(オフサイド)。NZ・10のPG。 FRAのP(オフサイド)。NZ・10のPG。 NZゴール前のFRAボール・スクラムから8→9←6(ラック)9→3(ラック)9→10(ラック)9がインゴールに飛び込みトライ。14がG。 |
(注)「→」は順目のパス。「←」は内返しのパス。
この決勝、NZの「完勝」と書かれてきたし、そう記憶していた。今回、あらためて見直してみると、もちろんFRA贔屓なのは自覚しつつも、けっこう拮抗した試合をしていたのだな、という印象を持った。少なくとも、前半の前半はNZがFRA陣内に居続けながらも得点には結びつかないシーンの連続、FRA・15・ブランコがタッチキックを蹴り続けてピンチを凌いでいる。そこでFRAの体力を削られて、後の大差になったのだろうが。
何が記憶に残るのか、何が語られ続けるのか、興味深いテーマである。
そして、まるで「時代劇」を見るような感覚にも陥る。
何といっても、ジャージに「襟」がついている。
キックオフは、プレースキックで、しかも「土を盛って」ボールを立てている。
スクラムは、レフリーのコールなしに組まれる。
ラインアウトは、リフティング禁止なので無秩序状態の中、スロアーが投げ入れる。FRAのスロアーは9番。オールメンだけでなく、二人・四人・五人のラインアウトもある。
ラックは、「団子状態」。これまた無秩序にうつる。
この試合の最初の得点は、①フリーキックを ②ポイントを下げて ③タップ(NZ9)してパスし ④ドロップゴール(NZ10)を決めたもの。
ともかく、「フェーズを重ねる」なんていう概念が発生する以前の試合、すぐに笛が吹かれて試合が止まる。今から思うと、何故こんなものが面白いと感じられたのか、不思議な気分にさえなる。
かつて備忘録49「S:L:P比」で次の数字を書いた。
2019W杯の1試合平均スクラム、ラインアウト、ペナルティ数
S | L | P | |
決勝ラウンド | 11.9 | 21.7 | 16.4 |
予選Pool | 14.2 | 25.4 | 16.8 |
第1回大会決勝では、S:38回、L:44回、P:17回であった。これにリスタートのキックオフ:10回、フリーキック:1回、ドロップアウト:5回を加えると、レフリーの笛が吹かれて、試合が止められたのは、115回。ほぼ40秒に1回は試合が止まっている。
笛が吹かれて、すぐ次のリスタートが始まるわけではない。「ブツ切り」状態のプレーの連続だっただけに、たまにボールが繋がっていくと大歓声が起こる。観客は、それを渇望していた。商業主義が忍び込んでくると、観客の欲望が、ラグビーのルールに反映される。ことの是非はともかくとして…
ラグビー史上初めての強豪チームが一堂に会しての大会。この大会を起点として、ラグビーが大きく変質していくことになった。
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2006年にフランスで出版された当時のMidolの編集長:ジャック・ベルディエ著『ラグビー年代記』(以下、「JV本」)は、1985年~2005年までのフランスラグビー界の出来事を克明に記している。
1987年5月22日、次のように記載されている。
『第1回W杯の偉大なる船出だ。そして、待ち望んだこのW杯が、ラグビーをどのように変えていくのか、本当のところ、誰もわからない。(中略)
技術的には、おそらく全面的な退廃が進むだろう。W杯の下で技術の進化・深化は加速化するだろう。他国のいい技術をすぐにも取り入れていくだろう。だけれども、それは危険だ、ある日みんなが同じようなラグビーをすることになるだろう。各国が隔世遺伝的に進化・深化させてきたそれぞれ固有のラグビーが消えていくだろう。
ところで、どのチームを見たいか一つ上げろと言われれば、やはりNZのオールブラックスだ。ダイナミックでスピーディで技巧にも長けている、まるで子供向けのメカ・ロボットのようだ。ブラックスに幸あれ!だけども、ブラックスを愛する、なんて陳腐なんだ!』
同年6月20日には、次のように記載されている。
『 … フランスの夢は、25分、潰えた。NZゴール前のFRAボール・スクラム。フールーHCが鍛えに鍛え上げたスクラムの威力が爆発し、スクラムを押し込む。NZは、少しの間抵抗するもすぐに押され出し、レフリーの目の前で崩れ落ちるもレフリーは笛を吹かない。仕方なく、FRA・9がバックスに展開する。NZの明らかにオフサイドの選手にタックルされても、この試合のレフリー:フィッツジェラルド(AUS)は何も取らない。ペナルティ・トライにもなりえた、少なくともペナルティは課されるべきだった、しかしFRAは1点も奪えずに過ぎていった。終わった! 疑う余地もない初代王者・オールブラックスがエリスカップを掲げた。』
フランスのどの本を見ても、①25分は、ペナルティ・トライでしかるべきだった ②でも、NZが初代チャンピオンになったのはよかった と必ず書かれている=語り継がれている=記憶されている。
AFPのラグビー担当だったアラン・ジェックス著『ラグビー喜劇』(以下、「AG本」)に、この決勝戦のFRA・3番・ガリュエが20年後に次のように語ったと書かれている。
『オールブラックスはFRAのスクラムを恐れていた。FRAのスクラムのプッシュを避けるための戦術を考えていた。それが、前五人、フロントとロックが瞬時に膝をつき倒れることだった。それだと、レフリーはペナルティを取りにくい。対面のNZ・1番・マクド―ウェルのペナルティとはならない。』
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第1回大会は、32試合・604,500人の観客を集めた。1試合平均18,891人になる。テレビの放映契約が結ばれたのは、開幕戦のキックオフ直前。
1985年3月に第1回大会を開くと決めたにもかかわらず、あるいは、初めてのことで、かつ、アマチュアリズムが充満していた中での準備だったからなのか、さほど盛り上がった大会ではなかった。
だからなのか、第2回大会が決まったのは、次の年1988年3月であった。
令和3年8月21日
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