2026年3月18日水曜日

仙台の瑞鳳寺の竹やぶを焼く火事のニュースが届きました😵‍💫

 瑞鳳殿ー仙台藩祖伊達政宗公が眠る瑞鳳殿、瑞鳳寺の竹やぶを焼く火事が在り(墓参りの火が燃え移った様子とか)幸いに怪我人無しで、瑞鳳殿には影響なかった様です。と、木村のやっちゃんから写真が送られて来ました。樹々に囲まれ夏は涼しい場所、夕暮れを散歩したり、石段を登ったりしましたが。今年の夏休みは登れるかな😅

2026年3月14日土曜日

 岡島レポート・ 2019 W杯・備忘録 318

 無欲の勝利 なんて 死語になるのかなぁ

              2019 W杯・備忘録 318

              〜 スポーツ新聞 〜

 

前回紹介した 多木浩二『スポーツを考える−身体・資本・ナショナリズム』(ちくま新書 047 1995年) 終章「理想は遠く」 「2 欲望の表象とスポーツ」 思わず う〜む なるほど… と唸ってしまう文章が 続く。

 

「欲望は細かい粒子のように社会に浸透している。それは人びとが本来もっているものもあれば、メディアによってかきたてられたものもあろう。」…「具体的に社会で表象される欲望は決して上等なものとはかぎらないし、随分いかがわしいものでもあり、その表象(メディアの言説)は直接、人びとの欲望をそこに固着させてしまう。」…「こうした言説による社会のなかで、やはり社会的表象たるスポーツはどのような位相を占めるのか、スポーツはいかがわしい世界と混じり合っているのか、それともそうした世界から超然とした高邁な位相にあるのか。こうしたことを考えるには格好の素材がある。スポーツ新聞である。」(p192193

 

読み進んで エッと 思ってしまった。

新聞メディア 二分法として 総合紙/専門紙 高級紙/大衆紙 などが 思い浮かぶ。 では スポーツ新聞とは スポーツを専門とした大衆紙なのだろうか。たとえば フランスでは レキップというスポーツ専門の日刊紙があり たびたび引用するMidol(ミディー・オリンピック)紙は 月・金 週二回発刊されているラグビー専門紙である。ところが ニッポンのスポーツ新聞は 多木によれば「スポーツと芸能とポルノグラフィとが同居しているメディアなのである。」(p192) ニッポンの常識は 世界の非常識!?

 

あわてて 広辞苑を見ると 「スポーツ新聞:スポーツ報道を中心に、娯楽・芸能関係の記事で構成される新聞。スポーツ紙」とある。おやおや… この定義にあてはまる新聞 おそらく フランスには 存在しない というか 他国の新聞事情 どうなっているのだろうか。

 

で 近所の図書館で 芹沢俊介『スポーツ新聞はなぜ面白いか』(ジャブラン出版 1992年)を借りてきて読む。

「スポーツ新聞の最大の原則は、それが徹底的に消費されて、最後にはプラスの意味もマイナスの意味も残さないことである。読み終えたら即座に忘れること。あるいはせいぜい非生産的な記憶−落合の打率、野茂の奪三振といった−や非生産的なおしゃべりの材料−上原謙の離婚など−としてのみ活用されること。これが目的である。」(p13)と 冒頭に出てくる。

「スポーツ新聞の我が国における創刊は敗戦の翌年の1946年である。日刊スポーツがトップを切り、5年遅れてスポーツニッポンと報知新聞がスポーツ新聞としてスタートしている。それから45年、ほとんどのスポーツ新聞が100万部を突破しているのである。」(p14)スポーツ新聞 華やかなりし時代 ♪ そんな時代もあったねと ♪ 

 

近年 「新聞離れ」という言葉を よく聞く。日本新聞協会が発表している発行部数などは 次の通り。

 

合計

    種類別

1世帯当たり部数

 世帯数

一般紙

スポーツ紙

2025

24,868,122

23,373,706

1,494,416

    0.42

58,955,700

1991

52,026,372

46,029,154

5,997,208

    1.24

41,797,445

最高値

53,765,074

1997年)

47,559,052

2001年)

6,579,052

1996年)

    1.30

(1981/1982)

58,955,700

2025年)

2025/最高値

    46%

    49%

    23%

    32%

 

 

20世紀末 新聞は絶好調だった!?

で どうやら しばらくすれば スポーツ新聞 絶滅しそうな… では ニッポンのスポーツ紙の特徴は? 芹沢・本では ㈰「スポーツ新聞は駅売りと宅配とでダブルスタンダードを採用している」(p16) ㈪「女性がスポーツ新聞を読みふけっている姿を一度も目撃したことがない」(p52) ㈫「通勤時間内での読み捨ての新聞」(p42)などを挙げている。  通勤電車のなつかしい風景が思い出される。今や 人びとは スマホの画面を 凝視している。

 

とすると 多木の言う「欲望」の内容が変容してきたのか 単に「欲望の表象」が変わっただけなのか はたまた 20世紀末のニッポン人男性が独特だったのか… 多木は「イエロー・ペーパーの存在は、その社会の欲動を知る上では興味深いのである。大衆の抱くきわめて日常的な欲望、願望、覗き見趣味等々を包み隠さず露呈しているのである。もちろん読者を意識してのことである。だからスポーツをどんな語り口で語っても、その言説は、この新聞が設定する欲望の次元とは無関係ではあらわれないのである。」(p193)とし 「スポーツ新聞はスポーツをスキャンダラス化し、そのスキャンダルを社会に浸みこませる。社会はスキャンダラスになるとともに、そのリビドの所在を明らかにしていく。スポーツ新聞は、こうしてスポーツを社会的リビドの位相に据える役割をしている。その記事内容に惑わされるかいなかは別問題である。」(p194)と締めくくっている。

スポーツメディアも変わってゆく どんな方向に向かうのやら…

 

令和8314

2026年3月12日木曜日

3月12日、矢部伸太郎さんからのメールが届きました。

登米市教育委員会 教育部 生涯学習課 スポーツ振興係主事の矢部伸太郎さんからのメールを、中田生涯学習センター高橋所長経由で、今日、受け取りました。 内容は(諏訪公園・外灯破損について)、令和 8 年 3月 4日、指定管理者から諏訪公園における外灯の破損について報告を受け。2月14日、諏訪公園を利用していた小学生が外灯に触れながら歩行中、手を負傷。確認した所、外灯のカバーにひびが入っていたことが原因であったと。指定管理者は現地を確認し応急処置をとりテープを巻き安全確保に努め、なお、外灯の一部は点灯していないものが在り、新たに外灯を設置したいのだが、諏訪公園の製作者、佐藤 達の意見を聞きたいと言う事でした。芸術作品を大切に制作者に意見を聞くと言う、さすが我が故郷の皆様は素晴らしいと思いました。登米市内の公的作品(諏訪公園、南方花菖蒲の郷公園、祝祭劇場作品、夏川芸術橋、石越支所、中田支所に設置して在る野外作品)破損等の問題が生じた場合、中田生涯学習センターに連絡して頂き、私に連絡が来ると言うシステムになって居ます。諏訪公園の街灯はドイツ製で、既に生産中止となって居る為、同じ外灯は手に入らないと言う理由でした。早速、矢部主事に電話で連絡を取り。ドイツ製の外灯に限りなく近いデザインの日本製の円柱の外灯の資料を送って頂く様にお願い致しました。諏訪公園完成が 2000年ですから。26年の歳月が経ちそれにしても良く持ちました。勿論、管理も良かったのです 🙇🏼‍♂️ 感謝です 🙏 外灯さんご苦労様でした。早速、高橋所長にもお礼の電話報告致しました。高橋所長とは、今年の夏も暑そうなので、昨年の打ち合わせでとおり、7月から10月辺りにかけてアート出前講座や大人の幾何学アート教室など、特に野外のファミリー・アート・ワークショップは秋に近い、暑くも無く、寒くも無い10月上旬辺りにとのお話も。今日はその後、 Satoru Sato Art Museum 第3展示室の作品最終確認の写真が届きました。 😅 明日、展示責任者でもある、佐々木さんにパーフェクトと電話する予定です。✌️

2026年3月7日土曜日

岡島レポート・ 2019 W杯・備忘録 317

                 今日あたり ネットフリックスの加入者 急増ずるのですかね?

                                                         2019 W杯・備忘録 317

                 〜 AI 〜

 

昔 テレビで見た 明治:北島監督が スタジアムで タバコをふかしながら 自チームの試合を 悠然と見ている姿を 思い出す。

「昭和のラグビー」 試合中 選手交替が存在しない時代 監督の役割は 見ているだけ だった。!?

現在 スタジアムでは 何人も 喫煙できない。

また 監督が 試合を眺めているだけなんてありえない。 監督・HC・コーチ陣は パソコンの画面とピッチ上を凝視し 指示を飛ばし続ける。 それを Waterのビブスを付けたコーチが ピッチ上を駆け回り 選手に 伝達している。

 

WATER:水は 「昭和のラグビー」では 飲むものではなく 「ヤカン」で運び・気絶している選手にかけるものであった。「魔法の水」の時代。水に魔力が存在していた!? 高校で ラグビーをはじめたころ 補欠として ヤカンをもって 走り回ったことを思い出す。それが 今や 飲み物になり・運ぶ人は 偉い人が務めるようになった。

 

「昭和のラグビー」 試合中の「頭脳」は ピッチ上の選手たちだけであった。 ピッチ上で 見・聞き・感じ 自らの頭で 分析・判断・決断し プレーしていた。「頭脳」は ピッチ上だけにあった。いつの頃からか ITが登場し・活用されるようになり ピッチ外からの情報が 重きをなしてきた。でも 「頭脳」は ヒトに占有されていた。

 

20世紀末に出版され 今に至るまで 読み続けれているスポーツ本に 多木浩二『スポーツを考える−身体・資本・ナショナリズム』(ちくま新書 047 1995年第1刷 2021年第9刷) 玉木正之『スポーツとは何か』(講談社現代新書 1454 1999年第1刷 2022年第19刷)がある。再読したが 読みごたえがある・新たな学びがある。両書とも 過去・現在・未来のスポーツを 縦横に語っている。

 

多木・本に「かつての資本主義では身体は労働力であり、商品を生産していた。この生産を中心とする段階では、スポーツは労働力の再生産のための余暇の利用法であった。… (現代は)スポーツはそれ自体として職業化した。スポーツの身体は物質を生産するのではなく、記号=情報を生産する。スポーツのアルゴリズムが生じる。さまざまな身体の神話とともに記録という情報を生みだすのである。ボールゲームでは得点というディジタルの差異を競うのである。チームゲームにおいても個人の能力はディジタル化される。野球の打率、サッカーの得点王争い、いろいろな能力、強さはディジタルに測られる。スポーツとは記号の場に、身体能力から性差を含む社会的矛盾までを描き出す表象活動なのである。」(p185)とある。社会の変遷に従い スポーツも変化し ITとの親和性も増してきた。すべては 同時代に シンクロして 進化・深化してきた。ラグビーのスタッツも増加・進化・深化してきている。

 

同時期に書かれた 保坂和志『羽生 21世紀の将棋』(朝日出版社 1997年)第6章 コンピュータ観 で 「パソコンによる棋譜整理を研究に導入した第一世代が、羽生をはじめとする佐藤康光、森内俊之などの1970年頃に生まれた棋士だ。」(p160)、「コンピュータによって一気に加速した将棋の体系化・系統的研究(棋譜・定跡の整備)は、棋士の心に重要な変化をもたらす。」(p164)と 分析している。

 

これらの本 それぞれ未来を語っているが 触れられていないのが 「AI」。あの時代までは 「頭脳」は ヒトのものであった。

今 AIが 飛躍的に進化し続けている。新たな「頭脳」の登場!? 誰が こんな現在を 思い描いていたのだろうか?

 

20193月 イチローは 引退会見で 次のようなことを言っている。

2001年にアメリカに来てから2019年の野球は、まったく違う野球になりました。まあ、頭を使わなくてもできる野球になりつつあるような。これがどうやって変化していくのか。次の5年、10年、しばらくはこの流れは止まらないと思いますけど。本来は野球というのは…これダメだな。これ言うとなんか問題になりそうだな。頭を使わなきゃできない競技なんですよ、本来は。でもそうじゃなくなってきているのが、どうも気持ち悪くて。ベースボール、野球の発祥はアメリカですから。その野球がそうなってきていることに危機感を持っている人って結構いると思うんですよね。」(山本敦久『ポスト・スポーツの時代』岩波書店 2020年 p25

 

近未来のラグビーでは AIが幅を利かせてくるのは 間違いない。 

その時 「頭脳」は どこにあるのだろうか? どんな戦略・戦術が 幅を利かすことになるのやら。 選手の「頭脳」は痩せてゆき ロボット化していくのだろうか?

 

そもそも 身体/頭脳 の 二分法で捉えるのが 間違いなのだろうか? でも 少なくとも AIは ヒトの身体/頭脳の外にある。ラグビーをプレーするのは 身体/頭脳を兼ね備えたヒトであってほしい…

気がかりではあるが いかんともしがたい ♪ 時の流れに身を任せ〜 ♪ しかないのだろうなぁ…

 

令和8年3月7日

2026年2月28日土曜日

岡島レポート・2019 W杯・備忘録 316

      花粉が飛んでる 花粉症の症状が 軽くなってきました 歳のせい!?

               2019 W杯・備忘録 316

                                                             〜 伝統 〜

 

リーグワンのテレビ中継をみていると スタンドの観客のかなりの人びとが 応援するチームのジャージを着ている。いったい いつごろから こんなに多くの人びとが ジャージ着用・観戦するようになってきたのだろうか… 代表戦しかり… サポーターの一体感が生まれ・試合に参加している気分が増す… あるいは ジャージ販売≒おカネの循環加速≒資本主義のなせる業 なのか… あらゆる競技スポーツ・あらゆる場所で 顕在化・定着してきている… グローバル化のなせる業… 新たな伝統が 創造されている。

 

広辞苑によれば

伝統:ある民族や社会・団体が長い歴史を通じて培い、伝えてきた信仰・風習・制度・思想・学問・芸術など。特にそれらの中心をなす精神的在り方。「−を受け継ぐ」「−のある学校」

 

で 思い浮かべるのが フランスのラグビーシーンでの ゴールキック時の相手チームサポーターの大ブーイング。まさに「ある民族が・長い歴史を通じて培った・風習」。というのも 1980年 フランスで はじめて観戦した時の驚き やがて それに慣れ(というか 大声を出すことが そのチームを真摯にサポートしていることの証+連帯感・爽快感 沈黙していることは 「悪」という感覚が芽生え・根差すことに) むしろ ニッポンでの静寂がスタジアムを包む時間帯への違和感が… そういえば 最近 ゴールキックを蹴った直後 「はいれ!」の一声が聞かれるように… 歌舞伎の名場面を見ているかのような… とすれば 他国では聞かれない掛け声なのだろうか? これまた 新たな伝統が ニッポンで 創造された!?

 

観戦マナー 時と場所で 違っている・違ってくる… こういうことも グローバル化=画一化=規律化するのだろうか…

 

その意味では NZ・フィジー・トンガ・サモアのキックオフ前の「ハカ」 相手チームサポーターは どうしているのか… 固唾をのんで凝視するニッポンサポーター vs 自国チャントを大声で歌い続ける イングランド・アイルランドサポーター… どっちも「あり」なのだろう… そもそも お祭り≒無礼講。

 

どうなんだろう? ある特別な時だけ 沈黙しなければならないのだろうか? 「ハカ」は 神聖な儀式だから… ゴールキックを蹴るのは 特別な時だから?… だったら 試合中は すべからく 沈黙すべし に 行き着きはしないだろうか とか。

 

そもそも なぜ 特定のチームだけの「ハカ」なのか… ジャパンも「ハカ」を! と主張すれば 伝統にない と 即座に却下されるのだろうが

 

今週 ロンドンで WR主催の「Shape of the Game」というフォーラムが開催されていた(WRホームページ・ニュース)。Midolによれば、㈰ 今後のラグビーの在り方を決する重要な会合 ㈪ 伝統的な「格闘」・「激突」に重きを置く国々(フランスなどの欧州+RSA)と 流動性・ショー化を追求する国々(NZAUS)の二大潮流の存在 ㈫ 象徴的な議論対象が スクラム再開の機会減少・レッドカード20分退場の扱いという 現在 スーパーラグビーで導入されている試験的措置 とのこと。

フランス側は めずらしく 協会・リーグ・選手会(フランスでは 選手会の発言力がそれなりにある)が「一枚岩」になって NZAUSの提案に反対しているとのこと。その根底には NZAUSの提案が 自国観客数の増加をめざしてのことだが そもそも 現在のラグビー・ビジネスの8割は フランス・イングランドで 実現されていて NZAUS提案が 観客増につながるのか 疑問であるというものである。

そして 却下の理由は 一言でいえば 「ラグビーの伝統にそぐわない」

 

スクラムは ラインアウトと並んで ラグビーの試合再開の中核 まさにラグビーをラグビーたらしめている 集団行為。NZAUSの発想は かつて ユニオンから袂を分かった 13人制ラグビーの発想そのもの。だから だらだら スクラムの組み直しが 続けられても ラグビーなんだから で いいのだろうか という 反論も出てくるのだろうが…

 

レッドカード・退場は ゲームをつまらなくする という意見・感想は いたるところで出てきている。これについても フランス陣営は 明快に プレーヤーファースト:選手の危険回避の観点から ありえないとし そもそも 「退場」という罰則そのものが ラグビーの伝統だ としている。さらに ゲームをつまらなくする ということに対しても 人数を欠いたチームが勝利することもあるという 反証を出している。さらに エリートラグビー(現行の競技規則の用語。同規則の定義では「ラグビーのプロフェッショナルレベルとは、各協会/競技会によって定められた規則、プロトコル、規定が使用されるべきである。」とされている。)とアマチュアラグビーは 同一規則で行われるべきだ ⇒ ラグビーを支えているのは 草の根:アマチュアラグビーだ ⇒ だから そういう試合でも適用される規則であるべきだ というような 論理構成で 議論を展開している。

 

何を「伝統」と捉えるか そして 「守るべき伝統」と「変えてもいい伝統」の仕分けをどうするのか 誰が主体・意思決定者として? 

令和8228 

2026年2月22日日曜日

やっと、テレビも国際電話もインターネットも復活しました。

3週間以上電話もテレビもインターネットも使えずに、その分、静かにして居ました。但し、近くの喫茶店で WiFi 利用して、被害は最小限に。但し、携帯電話は通じて居たので、Satoru Sato Art Museum の新しい展示作業が始まったと、昨日、連絡が入りました。どんな展示に成るのか楽しみです🙏前回の展示作品撤去も慎重に梱包も移動も大変です。今回の常設展示室の作品は、私のパリ留学時代の1969年から1974年迄の作品の中から選んで頂きました。

岡島レポート・2019 W杯・備忘録 315

                         球 春  ・  春ですね

                 2019 W杯・備忘録 315

                                                          〜 観戦・観賞・鑑賞 〜

 

「観る将」 2023年の流行語大賞ベストテン入り。『職業としての将棋棋士』(青野照市著 小学館新書 2025年)を読んでいたら 第12章:ファン層の変貌の中で 「女性のファンでもう一つ、驚いたことがある。一番新しいタイトル戦の叡王戦では、『見届け人』という制度で1局に1人、ファンを募集している。… この見届け人になる権利の定価が250万円というのだが、ほとんどの対局で埋まってしまう。」(p218)というくだりがあった。ビックリ仰天 というか 資本主義そのものだなぁ というか まさにビジネスとしてのグッドプラクティス!

 

先日のMidol紙上 敏腕記者:DUZANが「ラグビーは 「トライ後のパフォーマンス」を必要としているのか?」という見出しで 「自分(DUZAN)は 古い奴なのか 単なるおバカなのかもしれない。 昔は トライ後のパフォーマンスを見たことがなかった それが 今や TikTokのダンスのようなパフォーマンスをトライゲッターが 機械的に 演じている。」と嘆いていた。

おっしゃるとおり! 我が意を得たり!?

 

でもなぁ 「絵になるシーン」というか 試合後 切り取られて再生されるシーンって トライシーンか スクラム・P+一列目の咆哮が 圧倒的に多い…

昔は トライした選手は うつむいて自陣に戻っていた それを「かっこいい」と感じたものだ… ペナルティを取って 叫ぶなんて ありえなかった まして バックスが FWに駆け寄ってきて 肩をたたくなんて…

こんな嘆きを呟くなんて DUZAN同様 現実を直視できない おバカなんだろう まさに 年寄りの繰り言

 

リーグワンなどをテレビ観戦していても スタンドが大いに沸くのは トライゲッターがスタンドのサポーターに向けて わかりやすい・決まったアクションを 演じている時。サポーターからしても 一体感が醸成されて至福の時と感じているのだろう。そういう雰囲気・感情を味わうために スタジアムに足を運ぶ人が大勢いるのだろう。そういう人びとがいるからこそ 興行としてのラグビーが成立している…

 

あらためて 「ラグビーをみる」とは? と自問自答してみる。ラグビー創設前の「競戯」の時代 観客なんて 存在しなかった!? 競戯は「する」ものであって 「見る」ものではなかった!? それが 「競技」として制度化され 対抗戦が生まれ・応援する者が出てきた(どうなんだろうか… 競戯の時代も 応援者はいたのかもしれない… ただ スタジアム≒観客席が出来ることで 「見る」人が増えたのだろう)

やがて ラジオが普及し スポーツを聞く人びとが 飛躍的に増える。お次が テレビの時代。 同時刻に「見る」人びとは 爆発的に増えた。録画技術が進化し 同時刻でなく 事後に「見る」ことが可能になる。電波は世界を駆け巡る。現在は 映像が溢れかえっている。プロ化≒ビジネス化し プレーヤーファーストという呪文を唱えながら 「見る」人びとを増やしていくことが 第一になってくるのも 時の流れ・必然なんだろう。

 

広辞苑では

みる【見る・視る・観る】とあり 説明文中に「診る」「看る」も出てくる。

そして

観戦:戦闘などの模様を視察すること。また、試合などを見物すること。「野球を−する」観賞:見て楽しむこと。見て賞翫すること。「−植物」

鑑賞:芸術作品を理解し、味わうこと。「名画をーする」

 

『スポーツ観戦を科学する』(日本体育・スポーツ経営学会編 大修館書店 2024年)の中で 「スポーツ鑑賞」が提案されている。

「スポーツ観戦が勝敗に向かうパフォーマンスを重視した見方であると考えると、「スポーツ鑑賞」は勝ち負けへの重要度を下げ、目の前にスポーツがある試合時間と空間だけでなく、その前後にある日常に組み込まれたスポーツの見方です。」(p71) 「観客が負ける試合に出会うことは、「苦痛でないにしても不安な経験」と表現されるように、勝敗にこだわる見方でいる時には、極めてネガティブな経験となってしまいます。その一方で観客は、スポーツのチームの勝利を「私たち」という観点からとらえ、敗北を「彼ら」という観点から受け止め、注目していた選手やチームが負けるという結果を冷静に受け止めることができる性質も有しているのです。このような感情を乗り越えるには「負ける」価値を下げるか、「負ける」以上の価値を創造するか、または勝敗という結果ではないところにスポーツをみる価値を見出すことが必要とされ、そうした価値を受け取ることで勝っても負けても、スポーツをみるという行為が豊かな生活や観客のウェルビーイングにつながっていきます。」(p72

 

なるほど・なるほど…

 

サポーターとして チームと一体化して 熱狂を味わうのも スポーツを「見る」醍醐味の一つ。だけれども もう少し 「高みの見物」的に プレーヤー・チーム・試合・サポーターの全体を俯瞰して 観賞・鑑賞する というのも ありなのだろうな と 思っている。スポーツを「見る」のに 行儀作法を論じるのは まったく 無意味。 一方で なぜ 己が「見る」のか それは 深く考えてみる価値がありそうだ と 感じている。

令和8221