2011年9月30日金曜日
久しぶりに、羽田国際空港より、
成田国際空港の JAL041便に搭乗、42年前、羽田国際空港よりパンナム便で最初にパリに向った頃をふと思い出しながら、当時は南廻り、香港、バンコック等を降りながら25時間以上をかけた旅でしたが、今は直行便、ロシア上空を飛んで12時間でパリに着く、今回は、Premium Economy と言う席を予約、肘掛けが20cm幅は在りそうで、隣の席の方の肘とぶつからないのと足を伸ばせるので楽でした、エコノミーよりゆったり、ヴィジネスより狭い感じでしたが、と言っても、元々、どこでも眠れる体質、機内に用意されているマスクとアイマスク、それに音楽はクラッシック、音量を低めにイヤホンを耳にして椅子を倒して座り込むと同時に睡魔に襲われ、食事もせずに爆睡でした。一度、眼を覚ました時に、皆さんが済んでいた食事を、優しいスチアデス嬢が召し上がりますかと教えて頂いたのでお陰で食事もゆっくり出来、その後は、又、熟睡、目が覚めた頃には、もう、ヨーロッパ上空でした、快適な旅と言うより眠りの旅、パリ・シャルルドゴール空港に着き、入国、税関も問題なくパスして、迎えに来てくれた友人の Mavropoulos の車に乗り込んで、パリの自宅に着きました、我が家の番犬ウプシーが喜んで迎えてくれました。
2011年9月29日木曜日
Satoru Sato Exhibition 佐藤 達 展 2010〜2011
佐藤 達 展 2010 ~ 2011 Saroru sato Exhibition ◼平面・幾何学構成◼
◻◼期間 2011年 9月29日〜10月22日 ◻◼会場 T&S GALLERY - Shinagawa. Tokyo
学校法人中延学園、朋優学院高等学校 企画・協力
10数年前から、達ちゃん、展覧会してよ!と、八ちゃんこと、TSA の 飯塚八郎先生からお話を頂き、その内にと思いつつ、その後、4年前でしょうか、私が東京滞在中に、飯塚先生の最後の個展が、元・TASのT&S・GALLERY で開かれ、再会、その時も、早めに個展をと薦められましたが、その後、飯塚先生は体調を崩され翌年他界されました。
飯塚先生とは新橋に在った抽象系の画廊で当時、名をはせていた第七画廊からのおつきあい、正確には1973年夏に、当時、美術評論家連名会長、岡本謙次郎先生がキンシャシャからパリに入り、丁度、ブルッセルで個展中の飯塚先生がご一緒にパリ来てお会いしました、当時、パリに住んでいた、平賀敬さん、渡辺恂三さん等、第七画廊で発表している画家の皆様方が集まって、謙次郎先生を歓迎する夕食会等で、私は最年少、丁度、パリから西西北100キロ、ニコラ・プーサンの故郷のレザンドリ市の文化センターで個展開催中で、岡本先生と飯塚先生を車でご案内、作品を観て頂いたのは早いもので38年前に成ります。
展覧会の話を忘れていた頃、2年前から市野先生、中川先生から再度のお話を伺い、なんとか、今年の開催にたどり着けました。言わずと知れた T&S Gallery は、飯塚八郎、斎藤義重先生が中心となり立ち上げたTAS(東京芸術専門学校)時代に作られた展示空間、オープニングには中延学園時代からご存知の懐かしい、現・校長が出席して下さり、挨拶を頂きました。
案内状、パンフの校正は村上先生、紹介文、静寂と抽象のテキストは第七画廊時代(1974~1980)からの友人、千石英世さん(立教大学文学部教授)、彼が何度か足を運んだ古代エジプト・ピラミッド文明、生活文化に隠された幾何学構成の建築をはじめとする模様と空間、そして幾何学構成アートとして認識される20世紀、アートとして捉えられた時代の謎掛けを問う、夜明け前の広大な砂漠に建つピラミッドはまさに静寂と抽象の空間、テキストの結びに、◼この古くて新しいアートが、全く新しい可能性を眼前にきざみつつあることを知るのである◼と、私の作品制作に対しての真の応援歌、素敵なメッセージを頂いています。
朋優学院高等学校内に在る T&S Gallery は、天上の高い現代的白い空間、実験的な展示が企画されています、作品の展示は、杉さん(岡本先生)はじめ、美術科、デザイン科の先生方が協力して下さり、素早く1、2mmのズレも無く正確に展示出来ました。
高校生の学生さんから、留学した動機、パリでの生活状況、留学・手続きに関した事、芸術家は生活出来るのか、幾何学構成アートは現代美術に成り得ているのかと、真面目な質問が在り楽しかったです、多くの友人も駆けつけて下さいました。
◻◼期間 2011年 9月29日〜10月22日 ◻◼会場 T&S GALLERY - Shinagawa. Tokyo
学校法人中延学園、朋優学院高等学校 企画・協力
10数年前から、達ちゃん、展覧会してよ!と、八ちゃんこと、TSA の 飯塚八郎先生からお話を頂き、その内にと思いつつ、その後、4年前でしょうか、私が東京滞在中に、飯塚先生の最後の個展が、元・TASのT&S・GALLERY で開かれ、再会、その時も、早めに個展をと薦められましたが、その後、飯塚先生は体調を崩され翌年他界されました。
飯塚先生とは新橋に在った抽象系の画廊で当時、名をはせていた第七画廊からのおつきあい、正確には1973年夏に、当時、美術評論家連名会長、岡本謙次郎先生がキンシャシャからパリに入り、丁度、ブルッセルで個展中の飯塚先生がご一緒にパリ来てお会いしました、当時、パリに住んでいた、平賀敬さん、渡辺恂三さん等、第七画廊で発表している画家の皆様方が集まって、謙次郎先生を歓迎する夕食会等で、私は最年少、丁度、パリから西西北100キロ、ニコラ・プーサンの故郷のレザンドリ市の文化センターで個展開催中で、岡本先生と飯塚先生を車でご案内、作品を観て頂いたのは早いもので38年前に成ります。
展覧会の話を忘れていた頃、2年前から市野先生、中川先生から再度のお話を伺い、なんとか、今年の開催にたどり着けました。言わずと知れた T&S Gallery は、飯塚八郎、斎藤義重先生が中心となり立ち上げたTAS(東京芸術専門学校)時代に作られた展示空間、オープニングには中延学園時代からご存知の懐かしい、現・校長が出席して下さり、挨拶を頂きました。
案内状、パンフの校正は村上先生、紹介文、静寂と抽象のテキストは第七画廊時代(1974~1980)からの友人、千石英世さん(立教大学文学部教授)、彼が何度か足を運んだ古代エジプト・ピラミッド文明、生活文化に隠された幾何学構成の建築をはじめとする模様と空間、そして幾何学構成アートとして認識される20世紀、アートとして捉えられた時代の謎掛けを問う、夜明け前の広大な砂漠に建つピラミッドはまさに静寂と抽象の空間、テキストの結びに、◼この古くて新しいアートが、全く新しい可能性を眼前にきざみつつあることを知るのである◼と、私の作品制作に対しての真の応援歌、素敵なメッセージを頂いています。
朋優学院高等学校内に在る T&S Gallery は、天上の高い現代的白い空間、実験的な展示が企画されています、作品の展示は、杉さん(岡本先生)はじめ、美術科、デザイン科の先生方が協力して下さり、素早く1、2mmのズレも無く正確に展示出来ました。
高校生の学生さんから、留学した動機、パリでの生活状況、留学・手続きに関した事、芸術家は生活出来るのか、幾何学構成アートは現代美術に成り得ているのかと、真面目な質問が在り楽しかったです、多くの友人も駆けつけて下さいました。
2011年9月28日水曜日
9ヶ月ぶりに、表参道で待ち合わせ、
左から、高木さん、平田女史、佐藤、米本さん |
左から佐藤、高木さん、沼田さん |
ビストロ、Chez Pierre(シェ・ピエール)フランス料理店に、
このお店は、フランスの雰囲気を漂わせる空間が在り、日本に旅する度に、いや、東京に滞在する時、必ず一度は御邪魔するお店です、20年前でしょうか、麻布のルクセンブルグ大使公邸に招待された時に、同席したフランスの銀行のアジア局長が、気さくで美味しいフランス料理が食べれる店が在るよと教えて下さったのが、このお店です。その数年後、パリ第八大学の教え子でフランス語の他に日本語が話せる書ける読めるオリビエ君が、先生、夏休み東京に行くならとビストロのパンフレットをくれたのが、オリビエ君の親父のお店、見たら、何と、偶然にも、Chez Pierre の名前が付いているでは在りませんか、そんな事から、シェーフ兼オーナーの親父さん、伯母さん迄、知り合いになり、一人で行っても気さくで落ち着くブラリ寄れる所です、今日は、菊地さんと新宿駅交番前で待ち合わせ、10時ジャストに会って、佐沼高等学校の大先輩、このお店にも一度、珍しく私が招待出来た事が在る城市富夫先輩を見舞いにご一緒、その後、菊地さんを誘って、城市先輩とご一緒した乃木坂(出口No5番)に誘いました、今日は菊地さんが時間が無いと言う事で、早めのメニューを、時間が無いので早いのお願いしますと言ったら、はい、解りました、と、今日は魚料理でした、アントレは冷たいスープ、プラはお魚、デザート無しで、コーヒーを頼み、伯母さんが、甘いもの付けましょうかと、言って下さいましたが、今日は我慢の子と、コーヒーを飲んで、私の招待を蹴って1年後輩の菊地さんが支払い、次回は私が支払うと言う事で、彼は会社に飛んで行き、私は銀座に。城市先輩に可愛がられた飲み友達は一杯居ますが、彼は最後迄、つき合ってくれる後輩です、国際的山男それで居てラクビーキチで、ガンバリや、責任感の在る奴、頭が下がります。
左から菊地、PRIGENt、佐藤 |
2011年9月26日月曜日
T&S Gallery での展示作業
佐藤 達 展/■平面・幾何学構成■ の展示作業は、9月26日、午後3時から始まりました、ギャラリー内には、既に段ボール箱から各作品が出され展示会場の壁に作品が立てかけられていて、作品が汚れない様に作業をお手伝いする先生方は白手袋着用で、作品を置く壁側の床には作品と汚さない様にビニールが敷かれていました、佐藤祐行副校長が展示会場に顔を出して頂き和やか雰囲気で作業開始。
作品はいつもの様に、多めに13点を輸送していて、そこから選んでギャラリー展示室に7点展示と考えていました。天上の高い白い空間を活かしたいから、実際、7点では少な過ぎるか
なと感じ、凸の柱が3ヶ所在り、そこをどうするか、正面左の柱に細めの作品を置いてみると、逆に、作品全体が見えて来る感じ、そこで、決まり、さて、残りの左右の柱に作品を置くか置かぬか、展示してみて、又、外してみて、もう少し作品が小さければ問題無さそうですが、二階から見ると、気にならない感じ、空間が多少、狭く感じるかなと思いながら、自分で判断出来ない時は、廻りの方々に聞く方法で、結果は10点展示と成りました。
展示空間を生かす少なめの作品展示が好きなの
で白い壁の空間は作品と共に活きて来た感じで作品は3点残りましたが、ギャラリーの入り口表面に1点、階段を下りる所に1点、展示(これは、市野さん、中川さんの意見に従って)、残り1点は、学園長室の入り口の壁に、合計、13点が展示されました。市野さん、中川さん、杉さん(岡本先生)は、30年以上の付き合い、パリで個展やグループ展をしている仲間、私の悪い癖も見通し、時間は掛かる、何度も繰り返す変更あり、微調整あり、最後のぎりぎりの所でも突然の変更ありの危険なサトル君と知っているので安心です、同時に、壁が汚れている所は即座に塗り変えて頂き、美術科・デザイン科の先生方総動員で、村上さんは、パンフの校正で、現場の作品の色と印刷の色を比較しながら1点1点修正、文字の校正も多少の微調整をさせて頂きました、キャプションも指示させて頂き、2時間半ですべてが終了、18時過ぎには市野、中川、村上、望月先生方と夕食をご一緒、オープニングの進行を説明して頂き、その時も、震災と津波、そして福島原発事故の話題、赤ちゃんが居る望月先生が心配でと放射線量測定器(アメリカRAE社製 Dose Rae 2 PRM-1200 の線量計 )を持って、東京は地域によりますが結構高い所が在りますからと、測定器を見せて頂き、ついでにお店の中を測定器で計って頂いたら、何と仙台市内中心より、高い!驚きました。嘘です、嘘です、嘘で在って欲しいのですが。現実は厳しい状況です。
2011年9月22日木曜日
祝う会、歓迎会に参加して。
毎年、私が仙台に滞在する頃に合わせて歓迎会をして下さるのが、仲間がいらっしゃいます、今回は、たまたま、宮城県芸術選奨を県から頂き、それを肴に祝う会をと、9月22日、パレスへいあんで、只、今年は大震災も在り、控えめに親しい仙台の方々を中心にと言う事で、はじめ40名のテーブルを用意するとか、いつの間にか50名に、最終的には60名の方々と、再会する事に成りました。
2011年9月21日水曜日
Satoru Sato Art Museum の新しい展示
ミュージアムコレクションで、展示発表していない作品は、まだまだ在りますが、今回、初登場のデッサン&ドローイング展は、1964年の木炭デッサン(風景画)、1984年のドローイング(室内インスタレーションの為の)、1996年のドローイング(野外環境造型作品の為の)の計9点の紙の作品、平面から(具象から抽象へ)半立体、立体作品と変化する中で、共通点は直線構成と言えます。第三室の版画の展示室は、Association・ Les amis de Ieanne et Otto Freundlich 出版元、Hommage à Otte Freundlich 版画集、 Otto Freundlich の他に友人の Aurelie Nemours, Hans Sreinbrenner, Warie-Thérèse Vacossin の版画4点づつが展示されています、展示室二は、外国作家コレクションの中から縦と横の直線のみの作品12点を展示、展示室一は、斜めの直線、又、円を中心とした作品から11点を展示、今回は、ミュージアム、スタッフと言うべきか、登米市生涯学習センターの職員全員で展示作業に参加、版画のマット切りは器材と応援を石森章太郎ふるさと記念から、所長自らのカット切り、他の展示作業、照明迄、作品保管作業迄、皆さん、頑張って下さいました。
外国作家コレクション、水平と垂直による絵画展 |
外国作家コレクション、斜線と円による絵画展 |
オット・フロイトリッシに捧げる版画展 |
2011年9月20日火曜日
大人の絵画教室展 開催
2011年9月17日土曜日
立ち上がれロボット王国! 外村孝史さんからのメールです、
新たな発想による「原発事故処理向けロボットの研究開発」
おはようございます。唐突の提案ですが、如何しても気になる福島原発事故の後処理の
問題です。世間ではひところのように騒がしくなくなりましたが、大きな負の大きな、大
きな遺産を後世に残すことになりました。
この問題は現世代で知恵を出して解決の糸口でも見出しててあげない可哀そうです。
そこで提案ですが、みなさんと一緒に「原発事故処理向けロボットの研究開発」を立ち
上げたいと思います。
ご存じの通り、福島原発事故現場では、殆ど人手によって、放射能の年間許容量(原子
力施設の従事者は、年間で最大50ミリシーベルト、5年間で100ミリシーベルトとい
う基準)の基準値内で、作業をしています。この基準値には、いろいろな意見もあります
が、もし、これに準拠すると、何時かは原子力施設の従事者作業員が調達できなくなる可
能性があります。
そこで、早急に原子力施設の従事者の代わりを代替するロボットが必要になります。現
在、日本はロボット王国と言われてますが、大きな間違いですね。要素技術は世界一とは
思いますが、こんな非常時に日本のロボットが活躍できなかったことがなによりの証拠で
す。まずは情報発信して参ります。
今回の原発事故は現場ロボットを開発して行く上で、どんなロボットを開発すればよい
かが判ります。現在のキャタピラー方式のものも役には立ちますが、ロボット王国、日本
の意地を発揮して、原発事故現場で本当に役立つ、そして日々作業員が犠牲になっている
現状を改善する方向の手を打たないと、原子力施設の従事者はいなくなります。
今こそ、日本ロボット学者、実務者が一丸となってこの難題に挑戦する時です。
このプロジェクトの進め方
1.それぞれ、これに関するみなさまの意見、考えを提案してほしい。
2.賛同者をそれぞれ仲間に入れる。
3.まずはそれぞれ情報収集・発信から始めようと思います。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
早稲田大学理工学術院総合研究所(理工研 55s-04-02b)
プロジェクト研究「中小企業連携・支援研究」
連絡先 〒108-0072東京都港区白金二丁目5-12-1102
Tel/Fax 03-3280-5186 携帯090-5207-6098
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
<大災害に立ち向かうロボット.pdf>
2011年9月15日木曜日
野外作品メンテナンスに、かける男達、
2011年9月11日日曜日
21回、定禅寺ストリージャズフェステイバル
フェラン先生のグループが定禅寺通り三越よりのメーンステージで、日曜日13時45分から演奏、丁度、小雨も止んで、人が大勢、21回目となると、それに、今年は特別な年、全国からジャズミュジシャンが集まった様です。義明さんやフェラン先生の奥様マリエ先生ともお会い出来ませんでしたが、フェラン先生とそのグループのチームワークの良さから素晴らしい熱い演奏を生み出していましたBRAVO ! 、英語と日本語を使い分けする先生は、フランス語も話します。2日前の夕方、実は、義明さん(宮城大学教授)の企画で楽天と日本ハムの試合を観戦、フェラン先生と夫人のマダム・まりえ 先生、義明さんの息子さん直哉君と私の5人で楽天を応援に、5回迄、3対0で勝っていた楽天が6回表になんと8失点と結果は3対10で負けました、その時、ジャズフェステイバルの話を御聞きして駆けつけました、昨年の今頃、義明さんの紹介で Satoru Sato Art Museum で、フェラン先生ご夫妻とお会い出来、12月には泉で夕食会、飲んで、その後は、同級生の民夫ちゃんの息子さんのお店へ歩いて移動、更に、飲んで楽しいカラオケでしたが、何と、フェラン先生は日本の演歌もうまいのです、そして、クラッシクジャズを愛するアーテイストです。
2011年9月10日土曜日
やっと、体調が戻りました。
電話がパレットに改造。 |
2011年9月9日金曜日
素晴らしき仲間達、田手さんからのメールです。
電気自動車に没頭している仙台時代の仲間の情報です。
元官僚ですが夢の実現のため慶応大へ。現在は「エリーカ」というタイプで時速400㎞を目指していました。元F1レーサーの片山右京選手がトライをして370kmまで到達しています。開発を始めてから7代目のようです。現在は次の構想に進んでいるようです。もっと安くして市販化が望まれますが、私は免許無しです・・・。
合宿をしたり、シンポジュームを開いたり、提言をまとめたり・・・楽しい時代でした。亡くなられた元東北大学長の石田名香雄先生が会長でした。理学部、医学部や経済学部の教授、カミオカンデの電子管製造会社所長、ゼネコン、プランナーなどのそうそうたるメンバーで、当時はやっていたテトラパックの牛乳と菓子パンをかじりながらの話し合いを思い出します。今はばらばらになっていますが、メールのやり取りや東京や仙台で数人で会うことは続けています。
私に取っては初めての異業種交流会でした。津波で多いな被害を受けた南三陸町(旧・志津川町)で合宿をしたことがあります。その時に伺ったメンバーの自宅は蔵造りの大きな家でした。広い敷地にきれいな庭や蔵や倉庫が立ち並んでいましたが、全て土台だけを残して津波にさらわれたそうです。Googleで事後の様子を見て大きな衝撃を受けました。津波の威力は信じられません。お母さんが地震の過ぐ後に高台の小学校に逃げ無事だったそうです。
可愛いラッコです。癒されてください。
田手宏道
2011年9月6日火曜日
Pierre Mavropoulos 個展、開催
Pierre Mavropoulos 個展が、Gallery Moteki (企画画廊)、富岡市富岡1048(三町通り)で、9月7日(水)から9月16日(金)迄、開催されます。
Pierre と出会ったのは、1974 年、今から37年前、私が初めてパリの Salon de Mai (サロンドメ)に招待されて参加した絵を観て、ギャラリーで作品を取り扱いたいと連絡が在り、ポスターや案内状、他に版画迄制作してくれた パリの Galerie Paul Marquet 個展会場オープニングに、私の恩師の一人とも言えるBozzolini が、コレクターを連れて行くからと、一緒に来たのが Mavropoulos 夫妻、Bozzoloni が Satoru は若いが、なかなかの才能を持って居るので応援してくれと、ご夫妻がその時、作品を買って下さり彼らとの永い交流が始まりましたが、その時、一緒について来たのが13歳の少年、一人息子の Pierre でした、今は50歳となり、パリ画壇では知識豊かな中堅作家、葉巻仲間でも在ります。
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