阪神・淡路大震災から 31年
先日『五十年目の俺たちの旅』がらがらの映画館で ぱらぱら座っている 一人でやってきている おじ(い)さんたちと 見ました
2019 W杯・備忘録 310
〜 選手交替 〜
ラグビーマガジンに 名前が載ることは 誇らしい… ラグビーマガジンの別冊付録「全国高校大会ガイド」を パラパラ見ていた。各県代表校が それぞれ2ページで 紹介され 「SQUAD」では 30人の名前が掲載されている。が 部員が30人に満たない代表校が 数校ある。北から 北海道遠軽高校(27人)・県立山形中央高校(16人)・私立聖光学院高等学校(28人)・長野県飯田高等学校(20人)・県立若狭東高等学校(26人)・県立倉吉東高等学校(17人)・私立坂出第一高等学校(19人)・私立土佐塾高等学校(23人)・県立コザ高等学校(24人)
で このうちの20人未満の3高校が 花園で どうだったか というと いずれも一回戦で 東海大仰星(137−0)坂出第一〔19人試合登録し リザーブは1人出場〕
光泉カトリック(106−3)山形中央〔16人試合登録し リザーブ1人出場〕
飯田〔20人試合登録し リザーブは2人出場〕(82−0)倉吉東〔16人試合登録〕と大敗。
飯田高校は 2回戦で 目黒学院(115−0)飯田 と 完封大敗している。
昔は 選手交替なんていうものは なかった… 15人いればよかったのに… 選手交替:メンバーチェンジの生まれた歴史的背景は? ということで 今回も 前回同様 2冊の本から引用してゆく。
中村敏雄著『メンバーチェンジの思想』(平凡社ライブラリー73 1994年)は 「水戸黄門がマウンドに立てば」という架空の話からはじまる。㈰ある時 黄門様ご一行は 村びとが野球に興じているのに出くわし 「入れてくれ」と黄門様がピッチャーマウンドへ ㈪へなちょこ球しか投げられない黄門様は 滅多撃ちにあう ㈫そこで 助さん・格さんが ご印籠をかざすと 村びとたちは 平伏す ㈬その後 黄門様は 快刀乱麻 打者を打ち取り続ける… というストーリー。中村の主眼は 身分制社会では 対等な対決が望みえないということ。だから 「メンバーチェンジというルールは〈近代〉スポーツの多くに取り入れられているが、このルールが成立、実行されるためには、プレーヤーはすべて対等・平等であるということが認められている必要があった。」(p40)と続いてゆく。
そして 「メンバーチェンジというルールは、もともとは何らかの事情によってプレーヤーを交代させなければならないようなことが起こった場合の条件や方法などを決めたものであり、このような考え方の根底には、競技は常に同じ人数で行わなければならないという原則の確認があった。そしてこの原則の承認の背景には、競技は常に、しかも可能な限り、対等・平等な条件下で行われるべきであるという思想があった。」(p44)
さらに 「メンバーチェンジのルールは、もともとは単にメンバーの交代に関する条件や方法などを規定したものでしかなかったのであるが、やがてそれは初期に考えられていたプレーヤーの怪我、体調不良などの、いわば不測の事態への対応策という条件を超えて、勝利を得るための有効な手段として活用されるものへとその性格を変えていく。」(p45)
その変化の根底には 「19世紀後半期以降にアメリカで考案されたチーム・スポーツでは、消極的・限定的であったにしろ、基本的にこれ(メンバーチェンジ)を認める立場に立っていたのであり、ここにイギリスで生まれのサッカー、ラグビー、ホッケーなどがはっきりとメンバーチェンジを認めない立場をとったのと対照的で、しかも基本的な相違を見ることができる。このような考え方の基底にあったのは、さまざまな場面に「最適」のプレーヤーを活用して勝敗を争うという精神であった。これを勝利「至上」主義とはいえないにしても、「勝利」主義ということはできるであろう。言い換えれば、勝敗を争うものである以上、それは当然、対等・平等な条件下で行われるべきであり、その上で、互いに「最高」のプレーヤーを「最適」の条件下でプレーさせることが保障される必要があるという合意を成立・実施させる精神風土的条件がアメリカにはあったということである。」(p49)
鈴木透著『スポーツ国家アメリカ 民主主義と巨大ビジネスのはざまで』(中公新書2479 2018年)では アメリカ経済・社会史とシンクロさせながら 論じている。
まず 「アメリカ型競技が選手交代に寛容なのも、一部の人間に試合を独占させず、より多くの人に参加する機会を与えるという意味では、市場へのアクセスを保証しようとする独占禁止法の精神を彷彿させる。アメリカンフットボールやバスケットボールでは、一度ベンチに下がった選手も試合に再登場できる。疲労に打ち勝って最後まで同じ人間がプレーすることより、部分的であっても、より多くの人に試合に参加できるようにすべきだという精神には、開かれた市場と格差の是正を重視する発想が痕跡を止めているといえよう。」(p20)
そして 「アメリカ型競技が選手交代に寛容で、野球の代打のように状況に応じて最適な人材を投入し、得点という成果を最大限に得ようとするのは、実はこれ(究極的には生産の最大化を目指すこと)と対応関係にある。また、こうした競技理念は、野球のワンポイントのリリーフ投手のように特定の状況への対応能力を専門に磨くことを奨励する。それは専門性の高度化であると同時に、特殊能力があればゲームに参加できるという、能力主義や成果主義をも強化する。」(p21)
さらに 「産業社会の基本原理との親和性が高いアメリカ型競技では、分業化・専門化が進み、ポジションが細分化される傾向にある。それは、状況に応じて最適な人材を投入するというメンバーチェンジの発想とも相性がよく、より多くの人がゲームに参加できる点では民主主義と、より成果が最大化できる点では資本主義の精神とも軌を一にする。また、特殊な専門的技能の重視は、能力主義や成果主義を強化する。つまり、選手の価値は、あくまでその人の能力という物差しに一元化される。逆に言えば、能力のある者が試合に出られない、ましてチームにさえ入ることができないとすれば、それはこのシステムと根本的に矛盾する。」(p93)と論じている。
また 「中村敏雄には、「メンバーチェンジの思想」と題する論考がある。この中で中村は、アメリカ型競技のメンバーチェンジの思想が一方では勝利至上主義を体現しており、それは勝利のために選手を部品化・消耗品化する発想だという鋭い指摘をしている。」(p96)
中村は 前掲書の中で「勝利至上主義とは、勝利を得るためにはいかなるものをも犠牲にして、そのためにあらゆる手段を集中・駆使すると同時に、勝利を得ることこそがスポーツにおける最高の目的であり栄誉でもあるという思想、といってよいであろう。」(p46)と定義づけている。
勝利至上主義に関しては 後日 じっくり考えることとしたい。
メンバーチェンジに関しては どうやら 歴史的には 村の祝祭であった「競戯」が イギリスの学校で「競技」に移行し
㈵ 両チームが 同数のスターティングメンバーで戦うことがルール化され(ただし メンバーチェンジは想定されていない)
㈼ ケガなどの不測の場合にだけ メンバーチェンジが認められるようになり
㈽ (野球のように)戦術的メンバーチェンジが付加され
㈿ (バスケットボール、アメリカンフットボールのように)交代し退場した選手の再出場が認められる
という経過を辿ってきたようである。
部員数の少ないチームにとっては メンバーチェンジが 有難迷惑のような…
ラグビーについては まず メンバーチェンジなしの時代があり ㈼の時代を経て 現在は ㈽の時代である。(一度退場した選手の戦術的再出場は 認められていない。)
「ラグビーは 公平性を重んじ 「先発15人のみで戦い 誰かがケガしても補充出来ない」それがラグビーの伝統・本質である」と プレーし始めた 「昭和」の部活で 聞いたのだが… なんのことはない 伝統も 本質も あっさり 変えられてゆく。
じゃあ 変化の原動力は 《面白さ》なのだろうか? その《面白さ》は プレーヤーにとってのなのか 観客のなのか…
これから どうなるのだろうか? 気になっているのは フロントロー・HIA・相手から受傷した場合は 再出場が認められている現状からして バスケット・アメリカンフットボール同様 戦術的再出場も「あり」とする日が やって来るのか 来ないのか…
令和8年1月17日
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