2021年7月24日土曜日

岡島レポート・2019W杯・備忘録 87

         2019W杯・備忘録 87

 海外遠征 

 エレロ『ラグビー愛好辞典』「海外遠征(Tournee)」の項は、こうはじまる。
1958年、10歳の時、近所の家でテレビを見ていた。ニュースで、フランス代表のRSA遠征が報じられた。ちょうど、RSAという国が遠くに存在することを知ったばかりだった。短時間、試合の映像が流れ、その後、サファリ服の選手たちがKruger国立公園でガゼルに囲まれたり、Zoulou族の人びとと踊ったり、シマウマのステーキを食べているシーンが流された。アナウンサーが代表の出来を誉めそやしていた。後に伝説となった「半神たち」との戦いが語られていた。楕円球界の叙事詩イリアスが誕生した。
 海外遠征は、長い間、アマチュアラガーの夢であり、勇壮で稀な出来事だった。フランス代表が南半球の栄光につつまれたラグビーの地に数か月滞在する。数日遅れで快挙が報じられる。いくつかの偉業はフランスラグビー界の記憶として語り継がれている。1958年のRSA遠征、714日というフランス革命の日に初めてオールブラックスに勝利したNZ遠征! 常識外れ・想定外の海外遠征は、北半球と南半球の代表チームが対戦する唯一の機会だった、1987W杯が創設されるまでは。「友愛」と「平等」を重んじ、コンペティションやそれに類すること・ヒエラルキー化を忌み嫌ったラグビー精神に海外遠征はぴったり適うものだった。
 2年か3年おきにNZRSAAUSがヨーロッパにやってきた、そして数か月後にFRAENGの選手たちが大きな旅行鞄を持って数週間の冒険に彼の地に旅立った。誰もいつ行われるかわからなかった、行事表もなければ、南北のホーム&アウェーを統括する機関も存在しなかった。思わぬ時に海外遠征が発表された。突然、オールブラックスとかスプリングボックスがフランスにやってくることを知らされる!
 第1W杯以降、世界のラグビーシーンは激変した。新たな時代に入った。メディアは新たなコンペティション・刺激の強いイベント・ヒエラルキーを求めた。かつて海外遠征が齎してた豊饒な物語が、あっという間に、W杯・ヨーロッパカップ・スーパーラグビー・トライネーションズに置き換わっていった。幻想的なものから定期的なシステムに移行した。北半球と南半球のチームが、春と秋、それぞれのラグビーシーズンの終わりに遠征し、23試合のテストマッチを行う。人びとはスタジアムでオールブラックスを定期的に観戦できるようになった。かつての神秘性が消滅した。空想の世界で描いていた南半球の勇者たちを、今では、日々、テレビで見ることができる。情報が溢れている時代になった。』

 実況中継なんて夢のまた夢だった。中継録画なんていうのが出現したのはいつの頃だったのか? 日進月歩のITにスポーツはどう適応していくのか。TMOの次に出現するのは、どんなアイテムなのか、それによって、ラグビーはさらに変質していくのか、気になっている。グローバル化がいくら進展しても、「時差」と「季節」はおそらく無くならないのだろう。ラグビーに相応しい季節、時間は変わらないのだろうか。

 同書「オリンピック」の項は、こう書いている。
『「えっ、この秋だって? ヴァンセンヌ(パリ郊外)の競技場でオリンピックのラグビーが行われるんだ!」と、1900年、ジャーナリスト・ベルリオーが誇らしげに書いた。
 1870年普仏戦争の敗北の記憶が生々しい中、第3共和政が発足し、決勝は、フランス対ドイツの試合となった。内務大臣は、プロシア人との抗争を恐れ、逐一、試合経過の報告を大臣室で受けていた。試合は、テクニックと経験の差で、25-16でフランスが勝利した。大臣は安堵し、スタジアムでは熱狂した観客がピッチに溢れた。
 ラグビーは、その後、1920年アントワープ大会・1924年パリ大会と2回、オリンピックで競われた。クーベルタン男爵の強い影響力で! 英国は参加しなかった。この2回の大会では、カリフォルニアの学生たちのアメリカが決勝で2度ともフランスに完勝した。
 1924年大会決勝が、オリンピックにおけるラグビーの最後の試合となった。荒れた試合に、「交流と友愛の価値の体現」というクーベルタン精神の守護者たるオリンピック運営者たちは驚愕した。その後、当時のIRB(疑似ラグビー国際統括機関)は短いオリンピック期間ではラグビーの大会は行えない、という名目でオリンピック競技から離脱した。オリンピックにラグビーは馴染まない、と信じて

 クーベルタン男爵は、普仏戦争で敗北したフランスを立て直すためには、当時隆盛を誇った英国の諸制度・慣習を導入すべきだとして英国視察を行い、アマチュア学生スポーツの価値を高く評価した。そして、帰国後、1892年の第1回ラグビー・フランス選手権決勝の主審を務めている。

 『ラグビーの世界史 楕円球をめぐる二百年』(トニー・コリンズ 北代美和子訳 白水社 2019年)では、1900年パリ大会については、こう書かれている。
『クーベルタンのラグビー愛を考えれば、1900年にパリがオリンピックを主催したとき、ラグビーがプログラムの一部となるのはごく自然な流れだった。初期のオリンピックは節操がなく、パリ大会は1900年の万国博覧会の一部として開催された。ラグビーに出場したのは三か国のみで、代表チーム選抜を試みたのはフランスだけだった。ドイツ代表は実質的にはフランクフルト1880FCで、英国はほとんどがバーミンガムに本拠地をおく選手によるにわか仕立てのチームだった。』(p100
 また、1924年パリ大会については、こう書かれている。
『「アメリカ人のファンは死んだと思った」と、フランス人の観衆に襲われたアメリカ人のファンについて、アメリカ人スリークォーターのノーム・クリーヴランドは語った。「フランス人観衆がぼくらに襲いかかってくるのは時間の問題だと確信した」。ラグビーのチームが脅えるとは尋常ではない。しかも観戦者を恐がるというのはもっとめずらしい。オリンピックの決勝戦では前例がない。
 しかし、これが1924年のオリンピック・パリ大会、ラグビー決勝戦後半でアメリカ合衆国チームが直面した状況だった。アメリカが対戦相手のフランスを圧倒し、前半のリード3-0を広げつつあるとき、4万人の群衆は金メダルが大西洋を渡るという予測にしだいに腹を立てていった。コロンブ競技場のスタンドではフランスとアメリカのサポーターどうしで乱闘が勃発した。グランド上では選手どうしが拳をやりとりした。負傷した観客はグランドを取り巻くトラックにおろされた。アメリカ人は応急処置のために、アメリカ代表のロッカールームに運ばれた。  アメリカはフランスに17-3で予想外の勝利をおさめた。』(p147

 長期間・アウェーの国の中を旅し試合を重ねていく「海外遠征」、短期間・一都市で集中開催されるオリンピック、違いはあれどもアマチュアリズムという基盤の上に成立していた。

 時代とともに理念・精神は変わっていく。クーベルタンが珍重したアマチュアリズムは、オリンピックからもラグビー界からも霧消した。
 古き良き伝統は、どこへいったのだろうか? 「参加することに意義がある」などという発言をとんと聞かなくなった気がする。

 来週、東京五輪・7人制ラグビーが行われる予定だ。クーベルタンは、どう思っているのだろうか。

                                                令和3724

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