無欲の勝利 なんて 死語になるのかなぁ
2019 W杯・備忘録 318
〜 スポーツ新聞 〜
前回紹介した 多木浩二『スポーツを考える−身体・資本・ナショナリズム』(ちくま新書 047 1995年) 終章「理想は遠く」 「2 欲望の表象とスポーツ」 思わず う〜む なるほど… と唸ってしまう文章が 続く。
「欲望は細かい粒子のように社会に浸透している。それは人びとが本来もっているものもあれば、メディアによってかきたてられたものもあろう。」…「具体的に社会で表象される欲望は決して上等なものとはかぎらないし、随分いかがわしいものでもあり、その表象(メディアの言説)は直接、人びとの欲望をそこに固着させてしまう。」…「こうした言説による社会のなかで、やはり社会的表象たるスポーツはどのような位相を占めるのか、スポーツはいかがわしい世界と混じり合っているのか、それともそうした世界から超然とした高邁な位相にあるのか。こうしたことを考えるには格好の素材がある。スポーツ新聞である。」(p192・193)
読み進んで エッと 思ってしまった。
新聞メディア 二分法として 総合紙/専門紙 高級紙/大衆紙 などが 思い浮かぶ。 では スポーツ新聞とは スポーツを専門とした大衆紙なのだろうか。たとえば フランスでは レキップというスポーツ専門の日刊紙があり たびたび引用するMidol(ミディー・オリンピック)紙は 月・金 週二回発刊されているラグビー専門紙である。ところが ニッポンのスポーツ新聞は 多木によれば「スポーツと芸能とポルノグラフィとが同居しているメディアなのである。」(p192) ニッポンの常識は 世界の非常識!?
あわてて 広辞苑を見ると 「スポーツ新聞:スポーツ報道を中心に、娯楽・芸能関係の記事で構成される新聞。スポーツ紙」とある。おやおや… この定義にあてはまる新聞 おそらく フランスには 存在しない というか 他国の新聞事情 どうなっているのだろうか。
で 近所の図書館で 芹沢俊介『スポーツ新聞はなぜ面白いか』(ジャブラン出版 1992年)を借りてきて読む。
「スポーツ新聞の最大の原則は、それが徹底的に消費されて、最後にはプラスの意味もマイナスの意味も残さないことである。読み終えたら即座に忘れること。あるいはせいぜい非生産的な記憶−落合の打率、野茂の奪三振といった−や非生産的なおしゃべりの材料−上原謙の離婚など−としてのみ活用されること。これが目的である。」(p13)と 冒頭に出てくる。
「スポーツ新聞の我が国における創刊は敗戦の翌年の1946年である。日刊スポーツがトップを切り、5年遅れてスポーツニッポンと報知新聞がスポーツ新聞としてスタートしている。それから45年、ほとんどのスポーツ新聞が100万部を突破しているのである。」(p14)スポーツ新聞 華やかなりし時代 ♪ そんな時代もあったねと ♪
近年 「新聞離れ」という言葉を よく聞く。日本新聞協会が発表している発行部数などは 次の通り。
| 合計 | 種類別 | 1世帯当たり部数 | 世帯数 | |
一般紙 | スポーツ紙 | ||||
2025年 | 24,868,122 | 23,373,706 | 1,494,416 | 0.42 | 58,955,700 |
1991年 | 52,026,372 | 46,029,154 | 5,997,208 | 1.24 | 41,797,445 |
最高値 | 53,765,074 (1997年) | 47,559,052 (2001年) | 6,579,052 (1996年) | 1.30 (1981/1982) | 58,955,700 (2025年) |
2025/最高値 | 46% | 49% | 23% | 32% |
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20世紀末 新聞は絶好調だった!?
で どうやら しばらくすれば スポーツ新聞 絶滅しそうな… では ニッポンのスポーツ紙の特徴は? 芹沢・本では ㈰「スポーツ新聞は駅売りと宅配とでダブルスタンダードを採用している」(p16) ㈪「女性がスポーツ新聞を読みふけっている姿を一度も目撃したことがない」(p52) ㈫「通勤時間内での読み捨ての新聞」(p42)などを挙げている。 通勤電車のなつかしい風景が思い出される。今や 人びとは スマホの画面を 凝視している。
とすると 多木の言う「欲望」の内容が変容してきたのか 単に「欲望の表象」が変わっただけなのか はたまた 20世紀末のニッポン人男性が独特だったのか… 多木は「イエロー・ペーパーの存在は、その社会の欲動を知る上では興味深いのである。大衆の抱くきわめて日常的な欲望、願望、覗き見趣味等々を包み隠さず露呈しているのである。もちろん読者を意識してのことである。だからスポーツをどんな語り口で語っても、その言説は、この新聞が設定する欲望の次元とは無関係ではあらわれないのである。」(p193)とし 「スポーツ新聞はスポーツをスキャンダラス化し、そのスキャンダルを社会に浸みこませる。社会はスキャンダラスになるとともに、そのリビドの所在を明らかにしていく。スポーツ新聞は、こうしてスポーツを社会的リビドの位相に据える役割をしている。その記事内容に惑わされるかいなかは別問題である。」(p194)と締めくくっている。
スポーツメディアも変わってゆく どんな方向に向かうのやら…
令和8年3月14日
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