2025年2月27日木曜日

今日は珍道中で楽しかったです。

2月27日、上原さんから誘われて、登米市中田町浅水に在る民家でレストランを昨年開業したと言うお店に行って来ました。黒田さんの車に、遠藤さん、上原さんと私の4人で(私はナビ役)、現場で佐立さんの車で、Liz Malyさんとワンちゃん。佐立さんの友達の方も車で、3台共、 お店の駐車場で合流、計画通り、11時30分にお店に入れました。地元のハットを利用したパスタ。いろんな野菜を蒸した前菜は3回お代わり出来ました。3種類のパスタから選び、更に、私は牡蠣を選びましたが、海老を選んだ方も、デザートは遠藤、黒田、上原チームは頂いた様ですが、女性群と私のテーブルは料理が遅かったせいでやむなく断念して、諏訪公園に移動しました。その後、Satoru Sato Att Museumにご案内。それから安永寺に移動して襖絵と鐘が付いている野外の立体作品と昨年完成した小さなモニュメントを見て頂きました。そこで解散。我々は近くのお店でコーヒーをと思いきや、メニューにお汁粉が在ったので、上原さんだけはソフトクリーム✌️帰りは、愛妻館で野菜を購入して黒田さんの車で仙台に戻れました。黒田さんお疲れ様でした。

2025年2月26日水曜日

久しぶりに Satoru Sato Art Museum を訪問出来ました。

2月26日、朝 9時に旭ヶ丘駅タクシー乗り場で丹吾ちゃんの車に乗り、三陸道の途中、石巻近郊で彼の撮影計画が運悪く小雨模様で、急遽、午後に変更して、そのまま登米インター迄直進。無事、中田生涯学習センターに到着しました。丹吾ちゃんはすぐさま常設展示室の撮影。私は佐々木さん、粕谷さんと、令和7年度、サトル・サトウ・アート・ミュージアム事業計画(案)の事前打ち合わせ。6月1日(日)〜6日(金)、 前期作品入替。アート出前講座。子どもの幾何学アート教室。おとなの幾何絵画教室の件に関しての意見交換が終えて。3階の常設展示室に行くと、撮影も終盤、レリーフ作品の横斜めからアップの撮影も終えた所でした。丹吾ちゃん曰く、サトルさんの作品、直線ばかりかと思って居ましたが、曲線も作品の中で表現されているのですねと。スノコの様に、鍵盤の様に、そこに影と音が在る様に✌️さすが阿部丹吾氏!その後、いつもの場所でいつものランチを頂き。そこで丹吾ちゃんと別れて、丹吾ちゃんはその後、祝祭劇場を訪ねた後、ジャズ喫茶店に立ち寄り、ジャズを聴きながらコーヒーを飲んで、途中、石巻近郊での撮影も無事、済ませて仙台に戻られた様です。私はランチ後、材木を購入してミュージアムに3人で戻れました。丁度、高橋 所長が戻られ、スタッフ一同皆様の写真が撮れました。途中、墓参りして、兄貴達にパリから持参の貴重な、Propolis Verte と Gelée Royale のカプセル錠剤を届けて、16時30分の高速バスで登米市役所前を発ち、18時過ぎには電力前で下車出来ました。バスの中ではいつもの様に爆睡でした。寝る子は育つ。😵‍💫

2025年2月25日火曜日

丹吾ちゃんとご一緒に🙏😊久しぶりのランチ

2月25日、丹吾ちゃんから、これからお世話に成るピアニストの八巻さんを紹介しますのでと、11時30分に車で迎えに来て下さいました。12時に旭ヶ丘のお店に着くと同時に八巻さんも車で到着。3人一緒でお店に入る事が出来ました。

2025年2月24日月曜日

岡島レポート・2019 W杯・備忘録 264

        SATORUさま.                         ♪ もうすぐ 春ですねぇ~ ♪
                                       2019 W杯・備忘録 264
                                           ~ ブランコ ~
 
時代の波に乗る…
ブランコの軌跡 興味深いものがある。
 
1980年代のスーパースター:ラグビー界のペレ:ブランコ
1958年カラカス生まれ。父:ベネゼエラ人(警察官) 母:バスク人 父の死直後 2歳で 母の祖国に戻る。「大西洋岸随一のエレガントなビーチリゾート」の街・ビアリッツに根をおろす。
1980年 フランス代表初キャップ。 当時 ボルドー大学でビアリッツ出身の学部生から「ブランコ 滅茶苦茶すごいアスリートだよ。どんなスポーツでも 高校内では ダントツのNo.1だった。今は ダッソーの工場で工員として働いてるよ。」と聞いたことが記憶に残ってる。
1987年第1回W杯準決勝 優勝候補筆頭のAUS戦での輝き。世界的スーパースターに。W杯がなければ フランス「圏」・五か国対抗「圏」のスーパースターどまりだったであろう。
1991年第2W杯 ブランコのフランスも優勝候補の一角に。しかし フランスチーム内は四分五裂(まぁ よくあることだ…) 準々決勝ENG戦を前に 選手は「日当(報酬)150フランの引き上げを要求」し 準々決勝欠場も辞さずの構え(これまた フランスでは よくあることだ…)。選手は アマチュア 職場から有給休暇を取って・W杯に参加。「150フラン(為替レートにもよるが 5千円以下)」は 彼らの職場の日当よりも低い。そんな時代だった。今も語り継がれるアマチュア時代の珍奇なエピソード。一口に「おカネ」と言っても 「桁」が違い過ぎる… 試合は ブランコにターゲットを絞ったENGの快勝。
 
1992年 引退。選手としては アマチュア時代のみ(≒ラグビー長者にはなれなかった)。 199598年:BO会長 19982008年:フランスラグビーリーグ会長 200815年:BO会長 201216年:仏ラグビー協会副会長
 
ブランコと言えば BO(ベー・オー ビアリッツ・オリンピック)(BOは 1913年ビアリッツに前世紀末に創設され・存在していた複数クラブが合体して発足。)(ちなみに フランスラグビー界で「BO」はビアリッツ(オリンピック)「CO(セー・オー)」はカストル(オリンピック)。ジュニア時代から 一貫して BOのみでプレー 「移籍」という概念が存在しない時代 他のクラブでプレーしたことはない。 ブランコのBO フランス「圏」内では中堅どころのチームで 優勝には 届きそうもなかったシーズンがほとんどだった。
 
ところが…
 
『ビアリッツは最新(2006年当時)のフランスチャンピオンで、トゥールーズとスタッド・フランセに並ぶ“ビッグ3”の一つだ。』(p183)『ビアリッツはラグビーのプロ転換に見事なまでに成功してしまったが、それは、セルジュ・カンプという巨大スポンサーの力によるところが大きくて、彼は自分が所有するIT及びコンサルティングの巨大企業、カプ・ジェミニを通じてフランスラグビー界で最も金を投じた人物かもしれない。そして1980年代に光り輝いたフルバックであるセルジュ・ブランコも、このチームに貢献してきた。ブランコは、リーグ・ナショナル・ド・リュグビー(LNR)という、フランスのプロラグビークラブを管理する団体の長でありながら、ビアリッツ・オリンピックに対しては応援団長的な存在であるため、しばしば利害関係の衝突を招いて非難を浴びることになる。』(p184) これは『傭兵の告白』(原題:INSIDE FRENCH RUGBY ジョン・ダニエル著 冨田ひろみ訳 論創社 2012年)の一節。2007年に出版されたNZプレーヤーの体験記。プロ移行後のフランスリーグの実態を面白おかしく描いている。
 
巷間言われてきているのは ①1987年第1W杯頃から富豪・カンプが仏ラグビー代表チームの「タニマチ」になり ②なかでも ブランコと相性がよく ③ブランコのBOに肩入れするようになり ④プロ化後 有力選手を買ってきて ⑤三強の一角に。
ちなみに BOがフランス選手権で優勝したのは 19351939200220052006
 
プロ化直後 「おカネ」で選手を集め・チーム強化し・成功(優勝)したという意味では スタッド・フランセも同様。こちらは ダリダ(歌手)のマネージャーからラジオ局経営などで財を成した・ガジニがラポルト、ガルティエその他有力選手を搔き集め フランス選手権の覇者となった。古豪スタッド・フランセは 仏ラグビー創成期・18931908年までに 8回優勝し その後 下部リーグに低迷し続け プロ化後 おカネの力で 1998年 90年ぶりに 優勝し 200003040715年にも優勝している。
この2チーム いずれも 「パトロンの金の切れ目」によって成績が降下した。 特にビアリッツは 次のパトロンが現れず・チーム存続が危ぶまれるまでに至っている。
 
「世が世なら…」ブランコは 工員のままだったかもしれない
アパレルブランド「セルジュ・ブランコ」 フランス主要都市のみならず 世界展開し 日本にも上陸している。W杯の出現・ラグビープロ化の余波でもある。選手としては「一生」だったブランコ BO一筋でビアリッツ・バスクに根を張り巡らし 引退後 スポーツクラブ経営者・実業家として 羽ばたいてきた。時代の寵児の一人だろう。
 
令和7222

2025年2月22日土曜日

倉庫の整理は一人では時間がかかりそう・・無理らしいので・・・

22日午前10時にヒロエ夫妻の手伝いを頂き、無事、倉庫の整理が出来、お陰で5階の仕事場が広くなり助かりました。 予定時間より早く終えたので、ランチはヒロエちゃんの知り合いのお店でと言う事で、ビックリ、岩沼に移動でした。雰囲気の良いお店で、店内に洒落たギャラリーが在り、カウンターでランチとコーヒーを頂き、美味しかったです。偶然、お店の方の母さんがタイミング良くお店に立ち寄った様で、紹介頂きました。ヒロエちゃんから聞いて居たので昨年、 Satoru Sato Art Museum を見て来ましたと。感謝です。帰り際、土産まで頂き、仙台に戻れました。彼らが帰った後、忘れ物を思い出し、翌日、短い廊下のネオンを取り替えて頂き、明るく成りました。

2025年2月21日金曜日

ヨネさんのカフェで ☕️ 今日は、楽しみの 黒松ヨーカンはなかった。

 2月21日はランチの後、佐藤さん、上原さんと3人で久しぶり、ライズ・カフェでコーヒーを飲みながらお喋り出来ました。2杯目も飲める寛げる大人のカフェです。

2025年2月18日火曜日

3月で閉館される予定の川村記念美術館を訪ねて😱

 話は前後しますが。羽田国際空港に着いた翌日の 2月18日、小岩駅から市川駅で乗り換えて快速で千葉駅に、再度、乗り換えてJR 佐倉駅に到着、そこから美術館の送迎バスに乗り、川村美術館に一番乗り、1時間30分、迷わず到着出来ました。さすがに、美術館は環境の良い人里離れた場所ですが。入館者が多く、さすが川村記念美術館と納得。コレクションの作品はまるで宝石の様にと言ったら可笑しいかな😵‍💫Rembrandt , Fantin-Latour , Pissarro , Monet , Renoir , Picasso , Braque , Bonnard , Matisse , Miro , Léger , Chagall 素晴らしい作品✌️勿論、見逃せない Brancusiの作品も。貴重な、幾何学・構成的な作品、Malevich ,  Kandinsky、Gabo 、Moholy-Nagy、Arp 、Albers、Vantongerloo などの作品を見れました。他に、馴染みの Klein , Tinguely らの作品。アメリカ・アートの Calder、大作の Rothko、Le Witt、Reinhardt 、初期から晩年へと変貌する Stella の連作品。他に Plolock、Johns 、Louis、Lichtenstein、日本人は藤田嗣治、斎藤義重、堀内正和、山口長男、桑山忠明、菅井 汲、桑山忠明、荒川修作等、キリがない😊その後、東京に戻り、新橋の汐留パナソニック美術館で Le Corbusier ( Synthesis of the Arts 1930-1965)展を拝見出来ました。そこから近い銀座八丁目のGellery Séiho(ギャラリーせいほう)に立ち寄り、田中譲さんにご挨拶、4月14日から開催される私の個展についての段取りなどをお聞き出来ました。丁度、ヒロ画廊・相談役の藤井公博氏がいらして、田中さんに紹介して頂き、バブル期のお話から、3人で日本の画廊界のお話も、私は聞き役の方でしたが多いに楽しかったです。今日は朝から素敵な1日を過ごす事が出来ました。時差ボケの影響で早寝・早起きが出来て居ます。✌️

2025年2月16日日曜日

岡島レポート・ 2019 W杯・備忘録 263

 SATORUさま  歳のせいなのですかねぇ  寒さが 身に沁みます

            2019 W杯・備忘録 263
                                          〜 ガルティエ 〜
 
1987年第1回ラグビーW杯開催。4年に一度の開催で 世界は一つに!? グローバル・ラグビー「圏」が出現する。
1995年第3W杯直後 プロ化へ。新時代に突入する。
「前」と「後」で ラグビーの「質」が異なる。「異質化」という意味では W杯開催よりも プロ化の影響が大きいのだろう。
では ラグビー界だけで 独自の進化を遂げたのだろうか? むしろ「取り巻く環境の変化」・大波を浴びて 異質化した気がしてならない。同時代 世界は 資本主義が進化し 都市化・情報化が深化し続けていた。ある意味 そういう資本主義が「ラグビー」というコンテンツの「価値」を発見し その価値を「現金化」する「錬金術」を生み出した ということか…
不可逆の時が流れ ラグビー界は 別次元に移行した。
 
福沢諭吉「一身二生」をもじれば 当時のトップ選手は 選手として アマチュア時代とプロ時代の「二生」を生きたことになる。
現フランスHC・ガルティエ 「二生」の典型的な選手である。2014年に出版された自伝では 生い立ち(19693月生)から 興味深い逸話が次々に出てくる。
 
冒頭の一文は「私はデラシネだ。」 今に至るまで 事あるごとに 「故郷」:ロ県モンゲスティ(Montgesty)村への思い入れを語っている。ウィキによれば 同村の人口:320人(2022年)(フランスは コミューン(市町村)合併を進めていない)。2008年以降 同村の村長はガルティエ・父。 8歳のとき 欧州共通農業政策のために祖父が営んでいた畜産が成り立たなくなり・父が離村を決意し・130km離れたトゥールーズ近郊に引っ越すことになる。新しい生活に馴染めなかったが 父がはじめたラグビースクールで仲間ができた。10歳で ジュニアチームのあるコロミエへ。以後 30年間 同チームに所属する。(当時の多くのフランスラガーが 同様に 同じチームに所属し続けた。高校・大学・社会人と年代ごとに所属チームが変わる日本との大きな違い。フランスの若者には 「部活」がない。是非・正否の問題ではなく まさに歴史的・社会的な相違が生み出した形態の違い。それは ラグビーというスポーツに起因するというより 日々の生活・社会の在り方など ラグビーを包み込んでいる大きな社会環境・基盤に起因している。各「圏」ごとの 差異も そこから生じていた。)
母方の祖父は スペインからの亡命者(第2次世界大戦中・後 南フランスには スペイン・ポルトガルから移住した人びとが多くいる。ラグビー関係者にも 結構多くいる。エレロの父も ノベスの祖父も スペインからの亡命者。そういう人びとが ジモティの仲間入りするために ラグビーをする というのも よく聞かれること。名選手も 数多く出ている。)
 
17歳 トップチームの試合に出場することに。試合会場に行くバスの中で ベテランから「おい 若造 いくらで手を打ったんだ」と聞かれて はじめて 「試合給」の存在に触れることに。学生だったガルティエは 「給与」ではなく 自動車・パソコンなどの現物支給。アマチュアでありながら ラグビーで ある程度の「給付」を受けることは 当時のフランスでは 常識。1999年 30歳で プロ契約している。
大学時代 木曜日は大学の試合・日曜日は所属チーム:コロミエの試合に出場。年間72試合戦った。しかし 日本のような「大学ラグビー」は存在していない。
 
19808月から19826月まで ボルドー大学大学院に籍を置いていた。木曜日の午後 学部対抗のラグビーの試合がある。グランドに行くと 試合に出してくれる。みんな それぞれの地元のクラブチームに所属し・木曜日のクラブチームの練習(当時は どのチームも週1回練習・日曜日試合の繰り返し)の代わりに学部対抗の試合に出・金曜日の夜地元に帰り・日曜日の試合に出て 戻ってくる。フランスは 国立大学のみ 地域制で ボルドーから200km圏内から 集まり かなりは 寄宿生活をし・週末地元に戻っていた。当時 セラが 体育学部に在籍し 何人かの代表候補がキャンパスにいた。チームメイトの学部一年生と話すと 最大の問題は どのタイミングで 「兵役」を果たすかだったことを思い出す。
大学進学は一部の若者に限られていた(当時の大学進学率は 20%程度)が 「兵役」はすべての若者が果たさなければならない一年。エリサルドが ある時 「ジョワンビルでノベスと一緒だった。と言っても 奴は 陸上で来ていたけどね」と言っていたことを思い出す。
当時のフランスの若者男性にとって 兵役をどの部隊で過ごすかは 大問題。スポーツに長けた若者は 選抜されてパリ近郊のジョワンビル兵団に集められていた。ノベスの自伝の中では 月曜日の午後 訓練があり その後は 自由時間だったらしく 金曜日の夜に 地元に帰り 週末 所属クラブの試合(彼の場合は 陸上の競技会)に出て 日曜日の夜 兵舎に戻る繰り返しだったようだ。その往復の汽車の旅 ノベスは 2等車に乗っていたが トゥールーズのラグビー選手は 1等車での往復。そのうち 仲良くなって 仲間入りし 1等車に乗るようになった と 回想している。
 
兵役を果たす青春時代、兵役なんてなかった青春時代
部活のある青春時代、部活のない青春時代、か…
 
令和7215

2025年2月15日土曜日

昨日は Asdrubal Colmenarez とArlette 夫妻に😊再会出来ました🎉

久しぶりの再会は、いつものお店、Le Sarah Bernhardt でランチを頂きました。楽しい会話 😊 50年以上の付き合いは今も継続中。89 歳、頼もしい先輩です。



2025年2月10日月曜日

楽しい3日間を過ごさせて頂きました。

今日もたくさんの方々とお会い出来ました。巴里大VIIIの卒業生でいろんな展覧会やイヴェントを企画している南仏在住の Geraldine が家族と訪ねて来てくれました。Aki の会社の同僚やAki が通ったサン・イザベル小・中学校の同級生も。アーテイストの松谷武判・ケイトご夫妻とも久しぶりに、Galarie Akié ArichiのAkiéさん、Galerie Olivier Nouvellet のOlivierも、今日は午後 2時から19時30分迄、展示会場で楽しみました。友達の Claude も再度来てくれて19時30分からの作品梱包を手伝ってくれましたと言っても、作品梱包はACMのスタッフと一緒に、無事終えて。火曜日、11時30分に我が家に作品を届けて下さいます。感謝です。40年前に住んで居た 8 rue Commendant rené mouchotte 75014 Paris A棟9階のアトリエ付きアパート、思い出は尽きないです。