2025年2月8日土曜日

岡島レポート・ 2019 W杯・備忘録 262

 SATORUさま  お天気にしろ トランプさんのいる世界にしろ  よくなってほしいものだ と 願っちゃいますね

                                                                      2019 W杯・備忘録 262

                                                        〜 ベーグル 〜

 

ベーグル:「リング状にした生地をゆでてから焼いた固めのパン」(広辞苑)のことではなく ボルドー(というコミューンに隣接するコミューン)ベーグルという地域にあったラグビークラブの思い出話。コミューン(commune):手元の仏和大辞典では「㈰市町村(フランスなどの地方行政単位);(法人格としての地方自治体)」とある。フランスでは 市町村の区分はなく 県を構成する地方行政単位はすべてコミューンで同等。

1980年夏 ボルドーに隣接するコミューンに住み着き 2年間 何度も ベーグルの試合を見に行った。当時 ボルドー周辺で唯一の一部リーグ所属チーム(毎年のように構成クラブ数が変わったが 最大時は 80チームで一部リーグを構成)。1969年 フランス選手権で初優勝。しかし その後は低迷を続けていた。そんな時期のせいもあるのか 記憶に残っているのは 閑散としたスタンド。ほんと お客さんが少なかった。

当時の一部リーグのどの試合でも 後半のどこかで 必ずスクラムを組んだ瞬間に「乱闘」が…スタンドは大興奮! みんな絶叫してる! もちろん レフリーは「そっぽを向いて」事態が治まるまで 介入しない。(以前 パリで歩道を歩いていたら 自動車間の接触事故があった。歩道を歩いていた警察官は 音を聞いた瞬間 見もせず・そそくさと立ち去って行った。そんなお国柄)。やがて 何事もなかったかのように 試合が再開される…

ノベス(元フランス代表・トゥールーズHC・フランス代表HC)の自伝には『当時のラグビーにおいて 過激なプレーはその構成要素だった;多数のプレーヤーや観客にとって 「乱闘」のない試合は ほんとの試合ではなかった。』(p36)とある。

同時代のことを エレロは 『目を閉じて試合の音を聞いているだけで どのチーム同士が戦っているか わかったものだった。』と回想している。

当時(と言っても ある程度の幅があるが 大きな分岐点は W杯が開始された1987年であり それ以前) フランス「圏」のラグビーは 「多様性」の極致まで達していたと感ずる。個人的には その要因として 次のようなものがあげられる。 ㈰風土の違った幅広い地域に数多くのクラブが成立し・ある程度地域(これが ラグビー濃厚地帯のバスクなどに行くと 強豪チームが隣接している)内での序列が出来上がり(その地域内の有望選手は 当該チーム所属になる。当時 シニアの選手の移籍は 原則禁止) チーム間の戦力の均衡があったこと ㈪イングランド的“偽善”を毛嫌いし・勝利至上主義に走ったこと(フェアプレー精神ということを 聞いた覚えがない。「正々堂々と戦います」をフランス人に理解してもらうことは無理だと感じている。だからといって 無原則なのかと言えば そうではなく 彼らなりの「掟」は ちゃんと存在している。興味深いのは モールにおける「目つぶし」 ラックにおける「耳への噛みつき」は 彼ら的には なぜか 許容範囲だった) ㈫だから 相手の「裏をかく」「意表を突く」ことを ほぼ何の制約もなく あらゆるチームが考え続けているので 極度の多様性が生まれていた。

フランスのクラブチームは「地縁」を基軸に選手と結びついていた。そういう意味では 日本では「組織・縁」か… 今日 プロクラブチームが どんどん「おカネ・縁」にすがるようになってきている。

現在から振り返ると ヒト・カネの流れもさることながら 情報の伝播が 極めて遅く かつ 映像媒体(視覚)によるものは皆無に近く 多くは紙媒体(言語)だった。何事も 交流が加速化すると 均一化・均質化する傾向がある。「多様化」が 何事にも優る価値だとは必ずしも思わないが 多様性がある世界は 面白いものがある。

 

さて ベーグルは 1991年 再び フランス選手権で優勝する。立役者は キャプテン・ラポルト。後のフランス代表HC、フランス協会会長である。ラポルトの自著では『ガイヤック(トゥールーズ近郊のコミューン)のジュニアチームでフランス選手権に優勝し・フランステレコムに職を得・グルノーブルで月〜金勤務し週末ガイヤックに戻ってプレーすることに疲れていた時(1983年)に・ベーグルのモガ会長から声がかかり・フランステレコムに掛け合ってくれてボルドーでのポストを用意してくれ・転勤しベーグルでプレーするようになった」と記している。そして「兵役をメリニャック(ボルドー地域のコミューン)で行えるようにアレンジしてくれた」と。しかし 居眠り運転で大事故を起こし・生死の境を彷徨い・医師からはラグビーは無理と宣告される。2年後 会長から電話があり 「手当とフランス電力の職」を保証され チームに戻ることになる。

「コネ・縁故」が大手を振っていたフランス・ラグビー界。地域のラグビー界を差配していたのは 地域の有力者。モガ会長 食品産業で財を成し シャバンデルマス・ボルドー市長の右腕として 政治力もあり フランス・ラグビー協会の副会長も務めた。1983年 ベーグルが財政難に陥った時以降 ボルドーから資金援助を継続的に受けていた。ちなみに シャバンデルマスは レジスタンの勇士。1945年に対イギリス軍チームとの試合にウィングとして出場した1キャップがあり ベーグルに所属していた時期もあった。戦後 政界に転じ 194795:ボルドー市長 196972:ポンピドー政権下での首相(当時は 兼任は問題なし)などの要職を歴任。

 

フランスのスタジアムは ほとんどが「公営」(日本では明治以降 地域で小学校の校庭が整備された。同じ時期 フランスでは グランドが整備されていった) そして アマチュア選手にとって「職」は 不可欠(有力選手のかなりは 縁故採用の役場勤務だと思っている)。地域政界とクラブの「癒着」が常態化するのは ある種必然(だから イングランドの「お高く留まった」アマチュアリズムには嫌悪感を催す)。結果論だが プロ化する以前は そこまで おカネは必要ではなく あまたいる各地域の有力者の庇護で クラブ経営が成立していた。だから 群雄割拠の状態が 「圏」内では 続いていた。日本は 地域に根差すのではなく・「組織」に根差したラグビーが続いていた時代のことである。

令和728

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