2020年6月14日日曜日

岡島レポート・2019W杯・備忘録 30

2019W杯・備忘録30
~  ジョージア ~
 初出場チームはゼロの第9回目の今大会。
 1回大会は、KDDIの冠大会。主催者招待での出場チーム数は、16。その16チームのうち、今大会出場していないのは、ルーマニアとジンバブエの2チーム。
 第4回大会から出場チーム数が16から20に増えた。
 今大会、出場20チーム中、9大会連続9回目出場が、JPNはじめ11チーム。8回目出場が、SAMTON,  FIJUSA4チーム。
RSAは、第3回からの出場で、7大会連続7回目の出場。NAM6大会連続6回目、GEO5大会連続5回目、URG2大会連続4回目、RUS2大会ぶり2回目。
    RUSは、ルーマニアの失格に伴う繰り上げ出場だから、およそ世界のラグビー界の秩序(?)は保たれていて、新参者がW杯出場することは滅多にない状態になっている。出てきたのは、いつもの「オールド・ボーイ」ばかり!?
    新参者の中の注目株はGEOWR編集の“ワールドラグビー201931”は、『ラグビー新興国 ジョージアの台頭』という題名で、GEOが取り上げられた。ご覧になられた方もいると思うが、いくつかの印象的なシーンを再現してみる。

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言い伝えによれば、神が国々に地球を配分した時、ジョージア人は遅刻しました。
その理由を問われると「途中で祝杯を挙げていた」と答えました。「神を讃えていたのです」と。
 この答えに満足した神は、取っておいた土地をジョージアに分け与えました。

第1章 起源
レロ・ブルディ : 2000年以上も前から行われているジョージアの無形文化財。
現在は、年に一度、復活祭の時に行われる。 みんなで作るボールは17kg、豊作が約束され、死者の弔いにもなるボールです。 そのボールを奪い合うものです。
ルールが一つある。ボールを持つ人が倒れたら、手を挙げて合図しその人を助ける。誰かが手を挙げたら試合が中断される。
試合が終われば、川辺でトロフィーが渡され、両者、酒を飲んで夜を明かす。
( 映像で見ると、本当にラグビーの起源と思えます。)

軍事的要所にあるジョージアは、常に侵略者と戦ってきた。ローマ人・ペルシャ人・アラブ人・モンゴル人・オスマン人・トルクメニスタン人・プロイセン人と。
マムカ・ゴルゴゼの語り『ジョージアの歴史を見れば、この国が常に戦ってきたのが分かるだろう。ジョージア人は根っからの戦士だとは言いたくないが、自分の国を守るために戦ってきたのは事実だ。そして、その先祖の魂をジョージア人は受け継いでいる。』
 1949年にスターリン(ジョージア人)は、世界主義への批判を行う中で「ラグビーは“ソビエトの道義に反するスポーツだ”」と発言しました。そして、ソ連で行われていたラグビー選手権は廃止されました。1953年、スターリンの死後、ラグビーがソ連で復活しはじめました。
 1958年 ジャック・アスペキヨンがこの国にやってくる。( 興味のある方&お時間のある方は、参考の翻訳をご笑覧ください。)

2章 芽吹き
1978年 ソビエト・カップで初優勝。以後、ソ連ラグビー界を席巻し、ソ連代表チームに多くの選手を輩出。
1989年 ジョージア代表チームが結成され、ジンバブエと初テストマッチ
1991年 国民投票99%の賛成でソ連から独立。
激しい内戦が続く。ラグビーが途切れる。
2003年 W杯初出場 初戦ENG戦は力を出せなかったが、第2RSA戦は大健闘。

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   W杯「常連国」となり、前回大会では、予選プール3位となり、今大会自動出場権を獲得。
5回(2003)大会 : 04
6回(2007)大会 : 13敗 (ナミビアに勝利)
7回(2011)大会 : 13敗 (ルーマニアに勝利)
8回(2015)大会 : 22敗 (トンガ、ナミビアに勝利)
  
  ジョージア出身の栃ノ心が幕内初優勝を果たしたのが、2018年初場所。2019年大会でのジョージアの軌跡を、次回以降、辿ります。
 ( 参考 )
(注1) 以下の文章は、2007ラグビーW杯フランス大会終了後、フランスで出版されたジャン-クリストフ・コラン(Jean-Christophe COLLIN)著「スクラムの後で・・・(Apres la melee・・・)」の1章を訳したものです。この本では大会を通じての10のドキュメントが描かれており、どの章も味わい深いのですが、特にこの章はいろいろなことを考えさせられました。

(注2) 当時、ジョージアは「グルジア」と呼ばれていました。

   🔷  ジャック・ハプスキアン あるいは グルジア・ラグビーの信じられない歴史 🔷

  ヴェロドローム・スタジアム。1450分。一人の男がフランスとグルジアの選手たちが入場するのを凝視している。これまでの全人生を思い起こしむせび泣く。

    マルセイユの空はどこまでも青かった。よくあるように。しかし、広いヴェロドローム・スタジアムのスタンドの多くの観客の中に、観客に囲まれながらもたった一人で、彼の人生とともに座るこの男にとっては、この日の空はいつもより青かった。観客は多かったが、この試合は彼のものだった。スポーツにおいて、公式試合は人生の作品であろうか?
1450分、フランスとグルジアの選手たちがヴェロドロームの長いトンネルを抜けてグランドに現れると、ジャック・ハプスキアンは涙を流した。「彼らはほんのすぐ傍でプレーしていた。私は歓喜のあまり叫んでいたけれども、彼らには届かなかった。」そうなのだ、グルジアの選手たちが、真正のチームが聖ジョルジュの十字をジャージの胸につけてボールを回している。50年前にトビリシの靴屋で作られたのとあまりにも違い、かつ、同じボールを。

    グルジアがこのワールドカップに参加できたのは、スタンドに座るこの80歳の男の不屈の精神に負うといっても過言ではない。信念を持った無名の年寄り。
    はるかコーカサスの苦難と驚異の歴史を持つこの国にラグビーを根付かせ発展させたのは彼である。そして、その道のりは、ここマルセイユの波止場から始まった。もつれた糸を解きほぐすためには、1947年、ローヌ川を遡ったリヨンに戻らねばならない。
    彼の両親は、1915年のアルメニア大虐殺から逃げ出した。「アメリカの船とフランスの船がいた。彼らはフランスのに乗船した。」どうであれ生き延びるために! 彼らはソーヌ川とローヌ川の間に住処を見つけた。そして、1927年ジャック・ハプスキアンはリヨンに生まれた。1939年にフランスに帰化。16歳まで慎ましやかな、でも平和な生活を送っていた。  ある日、サッカーの試合をしていて、人生が激変することになる、もちろん、その時はわからなかったが。
 
「私たちはグランドの半分でサッカーの試合をしていた。残りの半分はリヨン・オリンピック・ユニヴェルシテール(LOU)のジュニアのラグビー選手が使っていた。1933年のフランス選手権者の彼らのコーチ、ヴァンサン・グロールがパントを上げていた。試合が終わり、彼が「ほら、ボールだ」と言って私に投げてよこし、ラグビーをやらないかと誘ってくれた。それから、LOUのジュニアチームに参加することになった。」そして、全シーズン、フルバックで出場した。「全勝だった。」しかし、ラグビーにおける友愛には限界がある。その当時の外人排斥は今と同じ、あるいは、今以上だったかもしれない。「みんな、私をジャックともハプスキアンとも呼ばず、“アルメニア人”と呼んでいた。」差別が彼の夢を奪った。「アヴィロン・バイヨンヌとの決勝戦、直前になってコーチはそれまで一度も試合に出たことのないタルブ【訳注:ピレネー山中の町、かつての名フッカー、ダントランスを生む。現IRB会長のラパセもこの町の出身】の奴を私に代って出場させた。」アルメニア人というよりはフランス人であったにもかかわらず。「決勝は、6対3で負けた。心の底では、この敗戦を喜ぶことを禁じえなかった。出場出来なかったことに深く傷ついた。だから翌シーズン、三部リーグの別のチームに移った。」
   
 ラグビーをやりながら、多くの若いアルメニア人同様、ジャックは服の仕立てを学んだ。「仕立て屋か、散髪屋かだった。」同胞の絆は強固だった。互いに行き来していた。そして、失われた楽園、亡き祖国を話し合っていた。
「友人たちは家にやってきて、アルメニアに戻るべきだ、ソ連はパラダイスだ・・・そう彼らは言っていたが、そう言っていた奴らは帰国しなかった。」実際、大戦で亡くなった数百万の労働力を埋めるためのソビエト政府の亡命者たちに対する陳腐なプロパガンダにすぎなかったのだ。この呼びかけに対して、数千のロシア、ウクライナ、グルジアの人々が呼応した。特にアルメニア人社会には大きな反響を引き起こした。彼らの故郷・西アルメニアのソ連への併合は輝かしく映っていた。プラウダは「Van,Bitlis,Kars,Ardahan地方のアルメニアへの歴史的帰属」を主張していた。この主張にフランス共産党も同調しており、ハスプキアン一家はアルメニアに帰還することを決めた。15万人の他の同胞とともに、そのうち7500人がフランス国籍であった。「私は戻りたくなかったのです。なんと言ってもフランス人でしたから、そして、ここに生活とラグビーがありましたから。アルメニア語を書くことも話すこともできませんでしたし。」しかし、年少者は両親について行くしかなく、ジャックは19歳だったのだから・・・「長兄と姉は残りました。姉は私に『ジャック、行っちゃダメ』と言ってくれたのですが・・・」しかし、ジャックは行き先の決定者ではなかった。大きな船、ロシア号が港で待っていた。「白いパンが配られた。大戦後、白いパンにお目にかかることはなかった。甲板から投げてよこして、波止場の警官までも取ろうとしたものだった。」

ロシア号は194796173500人の帰還者を乗せて出港した。低い汽笛が響き渡った。重い沈黙が船を支配していた。波止場では数千のアルメニア人とフランス人が、両親や友人との二度と会えないかもしれない別れを惜しんでいたのだったから。3ヶ月後にはもう一艘のPabeda(勝利)号がやはり3500人のアルメニア人をソ連15の共和国の一つアルメニア共和国へ運んだ。
「黒海に入ってからは白いパンは配られることはなく、粘つく食べられたものじゃない黒いパンが配られるようになりました。」数日後、船はバトミに着いた。「一ヶ月間、隔離・収容され、その後、アルメニア行きの汽車に乗せられました。汽車が小さな町に着きました。人々が言っていた地上の楽園、ソビエト連邦・・・ボロを着た男が汽車に近づいてきました。彼は我々に何をしに来たんだ、と尋ねました。説明したところ、我々をいぶかしげに眺め『ここにやってくるなんて、お前らはバカだ、俺を見ろ!』と叫んだのです。エルバンという都市に着いて、住処を探しました。しかし、土の家しかありませんでした。すべてはでっち上げで騙されたことを悟りました。すべての希望が消え去りました。彼らは我々のパスポートを取り上げていました。」
かなりの帰還者は、直接、強制収容所に送られた。1949年から1953年にかけて15万人が帰還したと推定されている。食べ物もない中に戻ってきた帰還者たちを現地の人々は憎悪の念をもって「移住者」として差別した。「フランスからの帰還者」は比較的ましな方だったが・・・
「当局は、我々を僻地のコルホーズに追いやろうとしていました。たまたま知り合いが運よくエルバンで職を見つけてくれました。そうでなければ、他の多くの人々同様飢えていたでしょう。ラグビーが救ってくれました。ポン・デ・シェルイでプレーしていた時のチームメートの父親に出会ったのです。『どこへ行くんだ?コルホーズ?行っちゃだめだ、飢え死にするぞ。何か手に職はないのかね?』ソ連では職人が不足していました。残念ながら私はまだ手に職がありませんでしたが、次兄はチョコレート職人でした。そうこうするうちに、ケーブル工場で彼が働くことになり、次兄、私もなんとかもぐりこむことができました。こうして、エルバンに残り救われたのです・・・」
ジャック・ハスプキアンは、フランスでの人生の僅かなものしか持っていかなかった。行李の中にあったのは、自転車、編みひもの革のラグビーボール、LOUのラグビー用品一式。スパイクと赤黒のジャージを持って、「お役に立ちたいのだが」とエルバンのスポーツ委員会へ出向いた。
「『我々は資本主義スポーツを好まない』と担当者に言われた。しばらくして、スパルタククラブに自転車をもって出掛けました。クラブの理事長から『実力をつけてから来な』と言われたものです。」
ハスプキアンはまだ20歳にもなっていなかった、国もなく、未来になんのあてもなく。彼は「実力をつけてから来な」という言葉に食らいついた。毎日数十キロ走り続けた。たった一人、でこぼこのアルメニアの道を。「実に長い2年間でした。」しかし忍耐強く頑張り通した。風と寒さの中で走り続けた。コーカサスの優秀選手が集うエルバン自転車大会まで。
「常に先頭集団にいました。人生がかかっていると自覚していましたから。ゴールまで200メートルになって3人に絞られました。そのうちの一人はアルメニアチャンピオン。スパートをかけて優勝しました。スパルタクの理事長が『わかった、面倒を見てやるよ』と言ってくれました。」
数ヶ月後、小さなフランス人はソ連最強チームの一員となった。1951年と1955年には自転車競技のソ連チャンピオンに輝いた。「1950年、フランスFSGTの自転車チームが競技のため、モスクワにやって来ました。我々ソ連の選手にとって彼らと話す権利はありませんでした。でも彼らを見ただけで涙が流れてきました。我々は勝ちました。なぜなら、レース中、彼らのサインがすべてわかったのですから、彼らは用心していなかったのです、ソ連の自転車選手がフランス語を理解するなんて想像もできなかったのでしょう・・・ある時、当局の目をのがれて彼らとこっそり話す機会ができました。フランス語で話し始めたら、彼らは驚きました。彼らにソ連について言われていることを信じてはだめだ、と言いましたが真実は言いませんでした。『何か君のために出来ることはないかい?』と言ってくれたので、フランスに戻ったら、自転車協会のお偉いさんに「ソ連の選手のように強化したいのであれば、ソ連の選手のように優遇しなければだめだ」と言ってくれ、と頼みました。数週間後、幹部がやってきて『ブラボー、我が国のことを良く言ってくれたな』と褒めてくれました。」
圧政は続いた。195355日スターリンが死んだ。「よく覚えています。郊外を走っていました。町であろうが郊外であろうが、いたるところ、拡声器でプロパガンダが流されていました。エルバンから25キロのところで拡声器から聞こえたのです。『同志たち、我が国は喪に服する。親愛なる我らが父、スターリンが亡くなった』思わずハンドルから手を離し勝利したときのように腕を突き上げました。「ついにやってきた」」
脱スターリニズムには3年後の第20回共産党大会まで待つ必要があった。この年、フランスから帰還したアルメニア人たちに重大な結果をもたらす出来事があった。フランス外相クリスティアン・ピノーがエルバンを訪れた。1956524日、エルバンのフランス系住民たちが示威行動をした。「もちろん、私もいました。激しい行動でKGBの注意を引きました。一人の女性が子どもを腕に抱いて外相の傍らまで迫ったのです。よく覚えていますけど、その子は靴下もはいていなかったのです。『この子だけは救ってください』と彼女は叫びました。外相は涙を浮かべていました。そしてこう言ったのです。『いま、この子を連れて帰ることはできません。しかし、皆さん方の最後の一人がフランスに戻って来られるまで私は全力を尽くします・・・』」フランスに戻る日を待ちながらハスプキアンは自転車選手を続けた。「15日間続くトゥール・ド・ソ連に参戦しました。13日目に母の死が知らされました。完璧に打ちのめされました。競技を止め、まっすぐアルメニアに戻りました。その後、自転車に乗ることはありませんでした。何も感じませんでした。アルメニアにいても何の希望も見えません。荷物をまとめてアルメニアを去りグルジアに向かいました。グルジアの自転車選手がトリビシで一緒に走ろうと誘ってくれていたのです。でも、走る気はまったくありませんでした。」
グルジアはソ連を形成する15の共和国の一つであった。アルメニアよりも豊かな。コーカサス山脈に沿って住む500万人の人々は伝統的な文化を保持し様々な民族が集まっていた。コーカサス人は70民族からなっている。山の人々で、がっしりし、誇り高く豪快である。言語・歌などがよく似ているバスク地方と同様に力自慢の競技が盛んであった。
「街を歩いたら、頬の赤いがっしりした奴らが信じられないような“第3ハーフタイム”をやって歌っているのです【訳注:フランスでは試合中を第1ハーフタイムと第2ハーフタイム、試合後の両チームによる馬鹿騒ぎを第3ハーフタイムと言う。これは、品のいいアフターマッチファンクションとは全く異質などんちゃん騒ぎ】・・・LOUのジャージとスパイクと古びた編上げのラグビーボールを持って、グルジア・スポーツ委員会の委員長のところへ会いに行った。「もう自転車をやるつもりはありません。ここでは昔、戦士たちが5キロの砂を詰めたボールを隣村まで運ぶ競技をしていたでしょう・・・」それは“レロ”と言い、ラグビーの源流とも言われている“スール”と同じような競技で、現在も祭のときにグルジアでは行われている。グルジアの人々がラグビーに向いていることは明らかだった。ハスプキアンはスポーツ大臣に当たるこの委員長に、この海と山に挟まれた地でラグビーを始めることを提案した。『だけれども、選手がいないよ』と委員長に言われ「見つけます!」とハスプキアンは即答した。
運動神経のいい人、がっしりした人を口説いて回った。『それをやったら、どんないいことがあるの?』実際、ソ連では余暇に行うスポーツという観念がなかった。競技のためのスポーツしか存在しなかった。「そこでアメリカにおけるスポーツを思い出し、大学生たちに話して回ったのです。そして大学生4チームで最初の選手権が始まりました。農科大学チームを破った工科大学チームが初の選手権者に輝きました。その当時は、草むらの一角で練習していて、グランドはありませんでした。長い間要請し続けてやっと一つグランドをもらえたのです。そこは競馬場の中のフィールドでした。50センチの草といたるところにある馬の鐙が作った穴。でも、そこで練習しました。ラグビーボールなんて無かったのです。フランスから持ってきた古い編上げのラグビーボールを靴屋に持って行って、これと同じのを作ってくれと頼んだのです。そうしたら、その靴屋はボールの紐を解いてばらばらにしていくのです。本当に心配しました、もとへ戻せないのじゃないかって。なんと言っても、そのボールがなくなったら、全てが消えてしまうのですから。でも、彼はうまくやってくれ、ラグビーが始まりました。奴らは何年もの間、自分たちのプレーしか見たことがありませんでした。テレビでラグビーが放送されることなんてありません。誰かが闇市で買ってきた高価な“ユマニテ”(フランス共産党機関紙)の記事で5カ国対抗の結果を知りました。かつて自転車競技の6位の賞品として貰ったラジオでフランスのことを聞いていました・・・その大会で終盤、コース沿いの表示見えたのです、その頃ロシア語を知りませんでした。ラストスパートをかけたのです、なんとその表示は“ゴールまで2キロ”だったのですよ。そして次々に抜かれてしまって。で、6位になってラジオを獲得したのです。」
以前のピノー仏外相の訪問は、ソ連国内のフランス系アルメニア人社会に確かな期待を引き起こしていた。毎年いく人かがフランスへ戻っていったが、各人にとっていつ戻れるかはわからなかった。ジャック・ハスプキアンは、毎夜仕立て屋のもぐりの仕事をしながら、その日が来ることをグルジアで待ち望んでいた。財務省の査察官が彼の夜の稼ぎを見つけ出した。「幸いなことに前に服を手直ししたことのある高級官僚を知っていて、彼が介入してくれて事なきをえました。」
グルジア・ラグビーは徐々に広がっていった。「モスクワでラグビーをプレーしていたグルジア人が戻ってきて私のアシスタントになりました。」
そして、ある朝、ジャック・ハスプキアンは郵便を受け取った:フランス入国ヴィザが受け付けられた。彼には出国のヴィザを得ることだけが必要だった。毎日窓口に通った。「列に並んで、私の番になると担当者がほほ笑みながら『ここにはありません。』と言うのでした。権力の怖さが身に沁みたものです。無力感に苛まれながらある日彼に尋ねたのです。「ムッシュー、机の中に私の出国ヴィザがあることはわかっています。あなたは何がお望みなのですか?」彼は『スーツを仕立ててくれ』と言いました。3日で仕立てて持って行きました。彼はスーツを見つめて、机の引き出しを開け、私の出国ヴィザを取り出しました・・・」
「出国準備に数日かかりました。」トビリシで出会ったオペラ歌手と結婚して、その当時3歳と5歳の子供がいたのです。「私たちはモスクワに向かいました。そこで飛行機は満席だと言われたのです。領事に座席の確保を頼んだところ、エールフランスのを見つけてくれました。チェレメンティエボ空港で飛行機に乗りこみました。」レニングラード方面へ向かうモスクワ北部の広大な最新飛行場。何時間もかかった。税関を通るのは一苦労だった。税関吏がしげしげとパスポートを眺め、次にヴィザを見つめる。やっとのことで、ハンコを押す。その後もまだまだ時間がかかる。やっとのことで、ハスプキアンはエールフランスのロゴの入った服を着たスチアーデスに切符を渡す。そして、妻と子供たちとカラベル機に乗り込む。彼はその時の情景を克明に覚えている。「離陸前に立ちあがってパイロットに話したいと望みました。やっと国に帰れるのだ、と。でも、単に、ソ連の領域を離れた瞬間を教えてくれと頼みました・・・」やがて飛行機は動きだし、チェレメンチィエボ空港の滑走路の前でエンジンを回し、そして、ついにモスクワの灰色の空に飛び立った。日が沈む方を目指しながら。コックピットのドアが開き、スチュアードが近寄ってきて耳打ちしてくれた。『ムッシュー、あなたは自由になりました。』196516日のことである。スチュワーデスがシャンペンを持ってきてくれた。それでしか感激を表わすことが出来なかった。パリについてモンパルナスのホテルに泊まった。数日後5カ国対抗の試合があった。妻に、観戦してくると言って出かけました。」フランス対スコットランド、168、ダルー2トライ、ピケとガシャシャンそれぞれ1トライ、ミッシェル・クロストがキャプテン・・・

    ジャック・ハスプキアンはその後、リヨン、そしてマルセイユで慎ましやかな仕立て屋家業を続けた。グルジア・ラグビーのことはついぞ耳にしなかった。鉄のカーテンが彼の過去を遮断していた、2000年のある日、電話を受け取るまでは。「どのようにして私を探しだしたのかわかりません。フランスのディジョンで試合したグルジア・ジュニアチームからでした。自動車を飛ばしていったところ、そのチームの首脳陣は、かつての私の教え子たちでした。彼らと三日間過ごしました。数ヶ月後、トビリシでの五カ国対抗Bグループ、グルジア対ポルトガル戦に公式招待されました。ディナモ・スタジアムでした。観客に紹介されたところ、熱烈な喝采を受けました!」グルジア・ラグビーは彼がいなくなってからも前に進み続けていた。メジャー・スポーツになるように、70年代、そして80年代、独立の日まで。
ソ連の歴史の中で、グルジアは二面性を有していた。べリアやスターリンのような体制中枢の人材を輩出する一方、独自性・民族統一主義を醸成していた。1985311日ミカエル・セルジェビッチ・ゴルバチョフが党中央書記に昇進し、ペレストロイカの時代になると、グルジアはソ連からの独立派の急先鋒となった。ゴルバチョフは個人の自由の拡大には寛容だったが、ソ連の解体は望んでいなかった。グルジアで独立運動が起こると彼はそれを抑制しようとした。フランストップリーグ・クレルモン、そしてグルジア代表のプロップ、ダビット・ザラカチビリはこう語る。「198949日、6歳だった・・・その数日前、両親に連れられて独立広場に行った。」数日間、このトリビシの歴史的広場では、グルジア人たちが自主独立、かつての主権回復を叫んでいた。しかしクレムリンは聞く耳を持たなかった。時代よりも少し前に出たこれらの人々に軍隊を差し向けた。その軍隊は、孤児を育て上げ民衆を鎮圧するために養成されたエリート軍団であった。この野蛮な軍団に対して、最前線で立ち向かったのがグルジアチームのラグビー選手たちであり、女性や子どもを守るために人の壁を作った。数十人が亡くなり負傷者を多く出したが、明らかにかなりはラグビー選手だった。グルジア人は長い歴史を持ち、かつ、生まれたばかりの国家のために捧げられたこの英雄的行為を鮮明に記憶している。
かつてはギリシャ神話の“金羊毛”の舞台となった、この世界の一角のラガーたちの運命は平板なものではない。このワールドカップの後に起こった内乱では、世界にこの国の違った側面を知らしめた。この15年間、グルジアは指導者層の貧困、戦争で、分裂し、ラグビーも大きく影響を受けてきた。実際、1991年独立以来、西側、とりわけNATOに近づこうとする傾向に対して、ロシアは干渉し続けてきた。西側へ行くことを許容できないモスクワはグルジア国内の少数民族の独立運動へ支援してきた。アカハースであるとか、特にモスクワが支援するオセートは、グルジアからの離脱を求めてきた。トリビシは拒絶し、内乱が勃発する。ラグビー選手は、ワールドカップ参加チームのコーチのように、新兵とともに前線へ送り出される。現在フランストップリーグ、トゥーロンの大柄な三列目グレゴル・ラバゼは担架兵だったように。この内乱のあとにはグルジア・ラグビーは完璧に消滅してしまった。内乱時には選手権はなく、チームもなくなり、スタジアムもなくなった。3年前に内乱が沈静化し、徐々にスポーツが再開された。しかしグランドはなく、選手も探さなければならない。このような難局に選手たちは海外へ出ていった。グルジア協会によれば589人にのぼり、その多くはフランスでプレーしている。フランスの指導者たちは、外人プレーヤーがやってきてフランス人プレーヤーのプレーの場・職を奪っていると非難している。しかし、彼らがいつも自慢げに語るこのスポーツの持つ価値、寛容・共生・友愛は、グルジア人選手がフランス国内で多く見受けられ出すと否定されるべきものなのだろうか?およそ彼らの風土に強く・激しく結ばれたグルジア人でグルジアに住むことを望まない者はいない。彼らがその土地を去るのは必要に迫られてだ。多くの人々が移り住む、それは別のおはなしだ。だから、ワールドカップ期間中、フランスに住むグルジア人たちは自分たちの存在を誇示し続けた。時にはラグビーチームの一員として、また時には民族の一員として。「地球上に我々が存在して、内乱や政争で分裂している国という以外のイメージをみんなに知ってもらうために」とグルジアチーム・キャプテンのイリア・ゼドジニネスは説明する。彼らはアルゼンチンを苦しめた。【訳注:2007911日、アルゼンチン33-3グルジア、前半は6-3】対フランス戦は、そこまでの抵抗を試みなかった、なぜならばチーム首脳が功労のあったベテランを起用したから。
グルジア人にとっては、試合は単なるスポーツを超えた意味を持っていた。過去を清算し、新たな歴史を作るという。ある日、LOUのジャージと古びたスパイクと編上げのボールを持ちトビリシに流れ着いた名もない男が伝搬したところから始まる歴史。50年後、6万人の観客がヴェロドローム・スタジアムに集まった、一人の男の人生の作品だとは知らずに。誰も、この引退したマルセイユ人が赤と白のチームの父だとは想像できない。「フランス戦は出来が良くなかった、もっと激しく戦ってほしかったのだが。でも、そんなことは大したことじゃない・・・試合を観戦して、どんなに幸せだったことか。自分の仕事を見て、私の人生にも結果として意味があったなと。」
試合後、ジャック・ハスプキアンはマルセイユのフォッシュ将軍通りのアパートでひっそりと暮らしている。「もう私にとっては、すべてが終わりました。動くのが辛くなってきたのです。思い出しかありません。」苦難ではあるが、達成された人生。すべてというか、ほとんどは意味を持つ。5年前、彼はアヴィロン・バイヨネとのジュニアの決勝戦の先発メンバーから彼を外したコーチの住所を探し当てた。彼はトゥーロンで指導していた。「伺ってもいいですか?と尋ねたところ、喜んで、という返事でした。彼はかつての教え子と再会することを望んでいました。トゥーロンの家に行き、ソファーに腰掛け、すぐに私はたずねました「私もこの先長くないのです。1937年のアヴィロン・バイヨネとのジュニアの決勝戦で、どうして私を外しのですか?」
『失礼、どの決勝の話かね?』と彼は聞き返してきました。彼は私がどの試合を話しているのかわかりませんでしたし、思い出しもしませんでした。でも、私はあの試合を忘れられません、決して。立ち上がって挨拶しました、「申し訳ありません、奥さま、夕食までいるわけにはいきません。」」
                ( 終 )

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