2025年3月1日土曜日

久しぶりに Satoru Sato Art Museum を訪問出来ました。

2月26日、朝 9時に旭ヶ丘駅タクシー乗り場で丹吾ちゃんの車に乗り、三陸道の途中、石巻近郊で彼の撮影計画が運悪く小雨模様で、急遽、午後に変更して、そのまま登米インター迄直進。無事、中田生涯学習センターに到着しました。丹吾ちゃんはすぐさま常設展示室の撮影。私は佐々木さん、粕谷さんと、令和7年度、サトル・サトウ・アート・ミュージアム事業計画(案)の事前打ち合わせ。6月1日(日)〜6日(金)、 前期作品入替。アート出前講座。子どもの幾何学アート教室。おとなの幾何絵画教室の件に関しての意見交換が終えて。3階の常設展示室に行くと、撮影も終盤、レリーフ作品の横斜めからアップの撮影も終えた所でした。丹吾ちゃん曰く、サトルさんの作品、直線ばかりかと思って居ましたが、曲線も作品の中で表現されているのですねと。スノコの様に、鍵盤の様に、そこに影と音が在る様に✌️さすが阿部丹吾氏!その後、いつもの場所でいつものランチを頂き。そこで丹吾ちゃんと別れて、丹吾ちゃんはその後、祝祭劇場を訪ねた後、ジャズ喫茶店に立ち寄り、ジャズを聴きながらコーヒーを飲んで、途中、石巻近郊での撮影も無事、済ませて仙台に戻られた様です。私はランチ後、材木を購入してミュージアムに3人で戻れました。16時30分の高速バスで登米市役所前を発ち、18時過ぎには電力前で下車出来ました。バスの中ではいつもの様に爆睡でした。寝る子は育つ😱                  

丹吾ちゃんとご一緒に🙏😊久しぶりのランチ

2月25日、丹吾ちゃんから、これからお世話に成るピアニストの八巻さんを紹介しますのでと、11時30分に車で迎えに来て下さいました。12時に旭ヶ丘のお店に着くと同時に八巻さんも車で到着。3人一緒でお店に入る事が出来ました。

岡島レポート・ 2019 W杯・備忘録 265

 SATORUさま

トランプ 千両役者なのか 大根役者なのか.     ポスト・トランプ劇場 いつ・どんな内容になるのやら…
                                                        2019 W杯・備忘録 265
               ~ バスク ~
ブランコのラグビー・バスクのラグビー…

広辞苑(第7版)では 「バスク【Basque(フランス)】ピレネー山脈西部、フランス・スペイン国境にまたがる地方。1960年頃から独立運動が活発化。スペイン語名バスコ(Vasco)」「バスク語:バスク地方で使われている言語。系統は不明で孤立した言語。能格構文をもつ。」「バスク人:バスク地方に住む民族。現在のヨーロッパ諸民族のうち最も古い民族の一つ。海外へも移住。」とある。

日本での「バスク」認知度は バスチーにレアル・ソシエダ 「昨今、グルメやサッカーでバスク地方がより広く知られるようになるにつれ、バスク語の存在も認知されるようになってきましたが、皆さんはバスク語に対してどんなイメージを抱いていらっしゃるでしょうか。」(『バスク語のしくみ』(吉田浩美 白水社 2021年の「はじめに」)というようなものだろうか。

じゃあ バスクのラグビーは
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パリからマドリッド行きの汽車に乗る。オルレアン・トゥール・ポワチエ・アングレームと100kmおきに中都市が存在する。このあたりまでは 車窓から見えるのは サッカーグランドのみ。アングレームを過ぎたあたりから ラグビーポールが ちらほら見え始める。ボルドーを過ぎると サッカーゴールとラグビーポールが ほぼ同数に。ランド地方・ダックスを過ぎ バスク地方に入ると 圧倒的に ラグビーポールが優勢になる。
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(フランス)バスク地方の中心地 バイヨンヌとビアリッツの間の町で生まれ育ったデシャン(1998年サッカーW杯優勝チームの主将。2018年サッカーW杯優勝監督。主将・監督として優勝したのは ベッケンバウアーについで3人目)の伝記(Bernard PASCUITODIDIER DESCHAMPS2022)の中で「(彼の育った地域は)ラグビークラブがサッカークラブの10倍ある」(p24)と書かれている。デシャンの父・親戚もラガー。

ラグビー・フランス「圏」でのバスクについて エレロは こんなことを書いている。
フランスラガーにとって バスク地方は 理想郷だ。大聖堂。
千年の昔から バスク人は 重い石を持ち上げ・綱引きをし・丸太切りを競ってきた(()現在も バスクのスポーツ大会の主要競技種目)。そして 他のどのスポーツとも似ていない「ぺロタ」。
こうしたスポーツ史を持っていた人びとだから 楕円球の来襲を拒絶してもよさそうなものだった。が 熱狂的に受け入れた。
(エレロが子供の頃)バスクのことなんて 遠いところで 何も知らなかった。ラグビークラブの大人たちが よく バスク人について 「ちびで 蟹股で 首は両肩の中に埋没してる だがな 滅茶苦茶 勇猛なんだ」と 語っていた。子ども心に バスク人は みんな プロップなのか! と 思ったものだ」(Daniel HERRERO Lesprit du jeu lame des peoples” p113

デシャンの伝記では「バスクが すべてに沁み込んでいる、風景に・人びとの魂に。彼らは 怒りっぽく・無口で・無愛想で・慎み深い。バスク地方は 謙虚であり 測り知れない自尊心を持つ、ある時は 平静で ある時は 破壊的な暴力をふるう。木々であれ 野であれ 林であれ 森であれ 希望の緑をなし 絶望が潜んでいる。この地方には 半濃淡はない。太陽は照り付け 雨は激しく 空気はざらついている バスク語の発音のように。ここには 年代の溝はない。老いも若きも とにかく バスク人だ。日々の生活は厳しい が 感興をそそる。已むに已まれず 他出することがあっても 心がバスクを離れることはない。彼らは いずれ 故郷・バスクに戻ってくる。」(p17)と書かれてい

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ところで 汽車がフランス国境の駅:アンダイユ(フランス・バスク)から スペイン国境の駅:イルン(スペイン・バスク)に入ると車窓は一変し ラグビーポールが見当たらなくなる…

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1000年余の歴史を持つバスク人・バスク地方 同じ言語を話し・同じ文化を共有し・同じスポーツを楽しんできた民族が なぜか フットボールに関しては 国境線を挟んで まったく違う根付き方をしている。
長年 実に 不可思議な現象だと感じ続け いかなる原因でそうなったのか いろいろな文献に当たっても来たが 未だに これだ!という腑に落ちる説に出会わない。
エレロも「不思議だ。スペイン・バスク人も フランス・バスク人と同じく 格闘大好き・自尊心の塊だ。たぶん GODのミスなのだろうか? スペインに数多くいて影響力のある神父たちが 肉体のぶつかり合いを忌み嫌ったせいなのだろうか…」としか 書いていない。

令和731

2025年2月24日月曜日

岡島レポート・2019 W杯・備忘録 264

        SATORUさま.                         ♪ もうすぐ 春ですねぇ~ ♪
                                       2019 W杯・備忘録 264
                                           ~ ブランコ ~
 
時代の波に乗る…
ブランコの軌跡 興味深いものがある。
 
1980年代のスーパースター:ラグビー界のペレ:ブランコ
1958年カラカス生まれ。父:ベネゼエラ人(警察官) 母:バスク人 父の死直後 2歳で 母の祖国に戻る。「大西洋岸随一のエレガントなビーチリゾート」の街・ビアリッツに根をおろす。
1980年 フランス代表初キャップ。 当時 ボルドー大学でビアリッツ出身の学部生から「ブランコ 滅茶苦茶すごいアスリートだよ。どんなスポーツでも 高校内では ダントツのNo.1だった。今は ダッソーの工場で工員として働いてるよ。」と聞いたことが記憶に残ってる。
1987年第1回W杯準決勝 優勝候補筆頭のAUS戦での輝き。世界的スーパースターに。W杯がなければ フランス「圏」・五か国対抗「圏」のスーパースターどまりだったであろう。
1991年第2W杯 ブランコのフランスも優勝候補の一角に。しかし フランスチーム内は四分五裂(まぁ よくあることだ…) 準々決勝ENG戦を前に 選手は「日当(報酬)150フランの引き上げを要求」し 準々決勝欠場も辞さずの構え(これまた フランスでは よくあることだ…)。選手は アマチュア 職場から有給休暇を取って・W杯に参加。「150フラン(為替レートにもよるが 5千円以下)」は 彼らの職場の日当よりも低い。そんな時代だった。今も語り継がれるアマチュア時代の珍奇なエピソード。一口に「おカネ」と言っても 「桁」が違い過ぎる… 試合は ブランコにターゲットを絞ったENGの快勝。
 
1992年 引退。選手としては アマチュア時代のみ(≒ラグビー長者にはなれなかった)。 199598年:BO会長 19982008年:フランスラグビーリーグ会長 200815年:BO会長 201216年:仏ラグビー協会副会長
 
ブランコと言えば BO(ベー・オー ビアリッツ・オリンピック)(BOは 1913年ビアリッツに前世紀末に創設され・存在していた複数クラブが合体して発足。)(ちなみに フランスラグビー界で「BO」はビアリッツ(オリンピック)「CO(セー・オー)」はカストル(オリンピック)。ジュニア時代から 一貫して BOのみでプレー 「移籍」という概念が存在しない時代 他のクラブでプレーしたことはない。 ブランコのBO フランス「圏」内では中堅どころのチームで 優勝には 届きそうもなかったシーズンがほとんどだった。
 
ところが…
 
『ビアリッツは最新(2006年当時)のフランスチャンピオンで、トゥールーズとスタッド・フランセに並ぶ“ビッグ3”の一つだ。』(p183)『ビアリッツはラグビーのプロ転換に見事なまでに成功してしまったが、それは、セルジュ・カンプという巨大スポンサーの力によるところが大きくて、彼は自分が所有するIT及びコンサルティングの巨大企業、カプ・ジェミニを通じてフランスラグビー界で最も金を投じた人物かもしれない。そして1980年代に光り輝いたフルバックであるセルジュ・ブランコも、このチームに貢献してきた。ブランコは、リーグ・ナショナル・ド・リュグビー(LNR)という、フランスのプロラグビークラブを管理する団体の長でありながら、ビアリッツ・オリンピックに対しては応援団長的な存在であるため、しばしば利害関係の衝突を招いて非難を浴びることになる。』(p184) これは『傭兵の告白』(原題:INSIDE FRENCH RUGBY ジョン・ダニエル著 冨田ひろみ訳 論創社 2012年)の一節。2007年に出版されたNZプレーヤーの体験記。プロ移行後のフランスリーグの実態を面白おかしく描いている。
 
巷間言われてきているのは ①1987年第1W杯頃から富豪・カンプが仏ラグビー代表チームの「タニマチ」になり ②なかでも ブランコと相性がよく ③ブランコのBOに肩入れするようになり ④プロ化後 有力選手を買ってきて ⑤三強の一角に。
ちなみに BOがフランス選手権で優勝したのは 19351939200220052006
 
プロ化直後 「おカネ」で選手を集め・チーム強化し・成功(優勝)したという意味では スタッド・フランセも同様。こちらは ダリダ(歌手)のマネージャーからラジオ局経営などで財を成した・ガジニがラポルト、ガルティエその他有力選手を搔き集め フランス選手権の覇者となった。古豪スタッド・フランセは 仏ラグビー創成期・18931908年までに 8回優勝し その後 下部リーグに低迷し続け プロ化後 おカネの力で 1998年 90年ぶりに 優勝し 200003040715年にも優勝している。
この2チーム いずれも 「パトロンの金の切れ目」によって成績が降下した。 特にビアリッツは 次のパトロンが現れず・チーム存続が危ぶまれるまでに至っている。
 
「世が世なら…」ブランコは 工員のままだったかもしれない
アパレルブランド「セルジュ・ブランコ」 フランス主要都市のみならず 世界展開し 日本にも上陸している。W杯の出現・ラグビープロ化の余波でもある。選手としては「一生」だったブランコ BO一筋でビアリッツ・バスクに根を張り巡らし 引退後 スポーツクラブ経営者・実業家として 羽ばたいてきた。時代の寵児の一人だろう。
 
令和7222

2025年2月16日日曜日

岡島レポート・ 2019 W杯・備忘録 263

 SATORUさま  歳のせいなのですかねぇ  寒さが 身に沁みます

            2019 W杯・備忘録 263
                                          〜 ガルティエ 〜
 
1987年第1回ラグビーW杯開催。4年に一度の開催で 世界は一つに!? グローバル・ラグビー「圏」が出現する。
1995年第3W杯直後 プロ化へ。新時代に突入する。
「前」と「後」で ラグビーの「質」が異なる。「異質化」という意味では W杯開催よりも プロ化の影響が大きいのだろう。
では ラグビー界だけで 独自の進化を遂げたのだろうか? むしろ「取り巻く環境の変化」・大波を浴びて 異質化した気がしてならない。同時代 世界は 資本主義が進化し 都市化・情報化が深化し続けていた。ある意味 そういう資本主義が「ラグビー」というコンテンツの「価値」を発見し その価値を「現金化」する「錬金術」を生み出した ということか…
不可逆の時が流れ ラグビー界は 別次元に移行した。
 
福沢諭吉「一身二生」をもじれば 当時のトップ選手は 選手として アマチュア時代とプロ時代の「二生」を生きたことになる。
現フランスHC・ガルティエ 「二生」の典型的な選手である。2014年に出版された自伝では 生い立ち(19693月生)から 興味深い逸話が次々に出てくる。
 
冒頭の一文は「私はデラシネだ。」 今に至るまで 事あるごとに 「故郷」:ロ県モンゲスティ(Montgesty)村への思い入れを語っている。ウィキによれば 同村の人口:320人(2022年)(フランスは コミューン(市町村)合併を進めていない)。2008年以降 同村の村長はガルティエ・父。 8歳のとき 欧州共通農業政策のために祖父が営んでいた畜産が成り立たなくなり・父が離村を決意し・130km離れたトゥールーズ近郊に引っ越すことになる。新しい生活に馴染めなかったが 父がはじめたラグビースクールで仲間ができた。10歳で ジュニアチームのあるコロミエへ。以後 30年間 同チームに所属する。(当時の多くのフランスラガーが 同様に 同じチームに所属し続けた。高校・大学・社会人と年代ごとに所属チームが変わる日本との大きな違い。フランスの若者には 「部活」がない。是非・正否の問題ではなく まさに歴史的・社会的な相違が生み出した形態の違い。それは ラグビーというスポーツに起因するというより 日々の生活・社会の在り方など ラグビーを包み込んでいる大きな社会環境・基盤に起因している。各「圏」ごとの 差異も そこから生じていた。)
母方の祖父は スペインからの亡命者(第2次世界大戦中・後 南フランスには スペイン・ポルトガルから移住した人びとが多くいる。ラグビー関係者にも 結構多くいる。エレロの父も ノベスの祖父も スペインからの亡命者。そういう人びとが ジモティの仲間入りするために ラグビーをする というのも よく聞かれること。名選手も 数多く出ている。)
 
17歳 トップチームの試合に出場することに。試合会場に行くバスの中で ベテランから「おい 若造 いくらで手を打ったんだ」と聞かれて はじめて 「試合給」の存在に触れることに。学生だったガルティエは 「給与」ではなく 自動車・パソコンなどの現物支給。アマチュアでありながら ラグビーで ある程度の「給付」を受けることは 当時のフランスでは 常識。1999年 30歳で プロ契約している。
大学時代 木曜日は大学の試合・日曜日は所属チーム:コロミエの試合に出場。年間72試合戦った。しかし 日本のような「大学ラグビー」は存在していない。
 
19808月から19826月まで ボルドー大学大学院に籍を置いていた。木曜日の午後 学部対抗のラグビーの試合がある。グランドに行くと 試合に出してくれる。みんな それぞれの地元のクラブチームに所属し・木曜日のクラブチームの練習(当時は どのチームも週1回練習・日曜日試合の繰り返し)の代わりに学部対抗の試合に出・金曜日の夜地元に帰り・日曜日の試合に出て 戻ってくる。フランスは 国立大学のみ 地域制で ボルドーから200km圏内から 集まり かなりは 寄宿生活をし・週末地元に戻っていた。当時 セラが 体育学部に在籍し 何人かの代表候補がキャンパスにいた。チームメイトの学部一年生と話すと 最大の問題は どのタイミングで 「兵役」を果たすかだったことを思い出す。
大学進学は一部の若者に限られていた(当時の大学進学率は 20%程度)が 「兵役」はすべての若者が果たさなければならない一年。エリサルドが ある時 「ジョワンビルでノベスと一緒だった。と言っても 奴は 陸上で来ていたけどね」と言っていたことを思い出す。
当時のフランスの若者男性にとって 兵役をどの部隊で過ごすかは 大問題。スポーツに長けた若者は 選抜されてパリ近郊のジョワンビル兵団に集められていた。ノベスの自伝の中では 月曜日の午後 訓練があり その後は 自由時間だったらしく 金曜日の夜に 地元に帰り 週末 所属クラブの試合(彼の場合は 陸上の競技会)に出て 日曜日の夜 兵舎に戻る繰り返しだったようだ。その往復の汽車の旅 ノベスは 2等車に乗っていたが トゥールーズのラグビー選手は 1等車での往復。そのうち 仲良くなって 仲間入りし 1等車に乗るようになった と 回想している。
 
兵役を果たす青春時代、兵役なんてなかった青春時代
部活のある青春時代、部活のない青春時代、か…
 
令和7215

2025年2月15日土曜日

昨日は Asdrubal Colmenarez とArlette 夫妻に😊再会出来ました🎉

久しぶりの再会は、いつものお店、Le Sarah Bernhardt でランチを頂きました。楽しい会話 😊 50年以上の付き合いは今も継続中。89 歳、頼もしい先輩です。



2025年2月10日月曜日

楽しい3日間を過ごさせて頂きました。

今日もたくさんの方々とお会い出来ました。巴里大VIIIの卒業生でいろんな展覧会やイヴェントを企画している南仏在住の Geraldine が家族と訪ねて来てくれました。Aki の会社の同僚やAki が通ったサン・イザベル小・中学校の同級生も。アーテイストの松谷武判・ケイトご夫妻とも久しぶりに、Galarie Akié ArichiのAkiéさん、Galerie Olivier Nouvellet のOlivierも、今日は午後 2時から19時30分迄、展示会場で楽しみました。友達の Claude も再度来てくれて19時30分からの作品梱包を手伝ってくれましたと言っても、作品梱包はACMのスタッフと一緒に、無事終えて。火曜日、11時30分に我が家に作品を届けて下さいます。感謝です。40年前に住んで居た 8 rue Commendant rené mouchotte 75014 Paris A棟9階のアトリエ付きアパート、思い出は尽きないです。

2025年2月9日日曜日

昨日は13時に、会場に行きました。

 12時過ぎに、志津ちゃん、渡部さんから連絡が入り、展覧会を見て来ましたと連絡が在り、失礼致しました🙏🙇🏼‍♂️13 時にFlorence Wagner (Galerie Wagner)と会場で待ち合わせでお喋り出来、いろんな方々とお会い出来ました。Aki & Tony famille や我が家の隣人、Atelier-5のアーテイスト、 Jean Michel ・Laurence夫妻も来て、楽しい会話。私は18時過ぎには 会場を後にして、19時30分迄の時間はACM会長の Didier 夫妻にお任せ致しました。こちらの建物(住宅)には約 2000名が住んで居る総合住宅(HLM)、Didier 夫妻を知っている方々ばかりです✌️

2025年2月8日土曜日

昨日の Vernissage は、楽しかったです。

 1980年、巴里市営のアトリエ付きアパートの9階に住んで居た頃は、未だ無かった、1階の    展示スペース・Salle Modgiliani でのスペシャル展示会。SCM 会長の Didier Sutter ご夫妻、副会長の Anne Stephan さんに、お世話に成り、無事、オープニングを迎える事が出来ました。展示作品は最終的に、絵画は平面とレリーフ的な作品 20点、立体模型作品は 8 点、計 28点の展示となりました。 😊これまで、多くの皆様・仲間に支えられて 😊 感謝しています🙏🙇🏼‍♂️✌️ 合掌