2019W杯・備忘録168
〜 レフリー 〜
学生時代、プレーヤーからレフリーになった。一年間、幼稚な「笛」を吹いて・卒業し、レフリー兼公務員になった。心根としてはレフリーが主:天職、公務員は従:副業であった。
公務員になってみて、つくづくレフリーと似ていると感じ、今に至るまでその感情を持ち続けている。
なぜ似ているのか? おそらく三つの点が考えられる。
まず、プレーヤー(実業)ではない。かといって、虚業でもない。調整役であり、試合(社会)の欠かせない構成員である。
次に、競技規則(法)の一次的な・現場の判断者・裁定者である。
そして、黒子である。目立ってはいけない。スタンドプレーなんてありえない。
20世紀後半、日本の公務員の世界は、㈰無謬性 ㈪匿名性 ㈫前例主義が支配していた。この3原則、必ずしも悪いもの・全否定されるべきものではないと今でも思っている。
ところが、この3原則、外部からの「批判」に対して無力である。説明(責任)を果たそうとしても、匿名性の下、批判者への反論がなしがたい。そもそも無謬性を謳っている≒間違いを認めない≒批判に耳を傾ける必要性が生じない⇒「タコつぼ」に入って「批判」が過ぎ去るのを待つ。悪い習性が身に付いてしまう。
無謬性を遡っていくと国家無答責に行きつくのかもしれない。
近年、公務員を巡る環境は大きく変化してきた。
では 日本のラグビー界でのレフリーはどうだろうか?
2019W杯前にフランスで発売された『ラグビーの試合をいかに分析するか?(Comment decrypter un match de rugby?)』は全15章のうちの1章が「レフリング(L’arbitrage)」に当てられている。冒頭「レフリーは、どの時代も観客のブーイングの格好の的となり、近年はコーチ陣のフラストレーションの素・悪意が向けられている」という一文があった。
世界の常識は日本の非常識、日本のスタジアムでレフリーに対するブーイングを聞いたことがない。それはそれで麗しいことだ。もちろん、美点だ。
では レフリーは現実問題として間違った笛を吹くことはないのだろうか? そんなことはありえない、ヒトはGODたりえない(無謬ではありえない)。そもそも GODの創った不出来なものがヒトであって 間違いがあるのは当たり前というのが欧州人の考えの根源にある。だから レフリングの間違いを指摘するのは当然のことである。
たしかに 一度吹かれた笛は絶対である。そこを覆していては 試合が成立しない。ただし 吹かれた笛は 常に正しいとは限らない。正しくない笛に対して 事後的に間違っているというのは 筋が通っている。あったことをなかったことにするのは不自然だ。ワールドラグビーは、組織として、「間違いは間違い」として認める。日本協会はどうであろうか。
間違いを見極めるためには、「目利き」の存在が欠かせない。では、どういう経歴の人が望ましいのか?
元国際レフリー・現Irish TimesラグビーコラムニストのOwen DOYLEの昨年出版された「The Ref’s CALL」を最近読んで、実に示唆に富む指摘が各ページに展開されていて引き込まれてしまった。その中で、2019W杯IRE代表チームの出来に関して、次のように書かれていた。
Ireland’s stated aim was to reach the semi-finals, otherwise the campaign would be considered a failure. That message was conveyed by the performance director David Nucifora, even prior to that year’s Six Nations.
From a refereeing perspective, it was already a failure, with no Irish ref selected to travel; a first.
かつて IRE人レフリーがW杯の決勝を吹いたこともあったのだが 2019W杯では IRE人の主審はゼロ(JPNもIREも 副審に一人選出されただけ)。なるほどなぁと思ってしまった。
おそらく、JPNがベスト8以上を目指すためには、いいレフリーが出現することは重要だ(ARGという例外的な国もあるが)。そのためにはブーイングを浴びながら「打たれ強い」レフリーになっていくことも国際舞台に立つためには大切だ。
もちろん、「批判」には、建設的なものと無視すべきものとが混在しがちだ。だから、一切の「批判」を控えようというのも一つの考え方であり尊重すべきでもある。ただ、いいレフリーを育てるためには、様々な批判が存在しても大目に見るしかない。もちろん、批判する側にも説明責任が生じる。そうした過程を可視化することで、みんなが鍛えられてゆく。
日本人レフリーもいずれW杯の舞台に立ってほしいものだ。レフリーを鍛えるためには 国内での「批判」が必要だ。
令和5年2月25日
( 参考 : 2019W杯・備忘録45 〜 お国柄 〜 (再掲) )
レフリーも人の子、お国柄もあれば、個々人の個性もある。
今大会、主審を務めたのは、12人。予選プール37試合の笛を吹いた主審を所属協会別に区分すれば、次の通りであった。
数字は、試合数
Pool A | Pool B | Pool C | Pool D | Total | |
WAL(1人) | 1 | 1 | 2 | - | 4 |
ENG(2人) | 2 | 2 | - | 2 | 6 |
FRA(4人) | 3 | 4 | - | 5 | 12 |
RSA(1人) | 1 | - | 1 | - | 2 |
NZ (2人) | 1 | - | 3 | 2 | 6 |
AUS(2人) | 2 | 1 | 3 | 1 | 7 |
Total | 10 | 8 | 9 | 10 | 37 |
原則は、所属協会のチームが入っているPoolの試合は吹かない。唯一の例外が、M39 WAL/URGをガードナー(AUS)が吹いている。
レフリーの性格が如実に表れるのが、カードを出すか否かの判断。もちろん、TMOシステムの下では、かなりの平準化が図られてきている。さはさりながら、日頃吹いている習慣は抜けきれない。
カードを出した分布は次の通り。
数字は、イエローカードとレッドカードの数を足したもの
( )内は、レッドカードの数で内数
*は、試合を吹く機会がなかったことを示す
Pool A | Pool B | Pool C | Pool D | Total | |
WAL | - | 1 | 1 (R1) | * | 2 (R1) |
ENG | 1 | 2 (R2) | * | 2 (R1) | 5 (R3) |
FRA | 7 | 4 | * | 7 | 18 |
RSA | 1 | * | - | * | 1 |
NZ | - | * | - | 1 | 1 |
AUS | 3 (R1) | - | 1 (R1) | 1 | 5 (R2) |
Total | 12 (R1) | 7 (R2) | 2 (R2) | 11 (R1) | 32 (R6) |
それぞれの試合は、さまざまな要素が絡み合っていて、カードの有無を機械的に統計処理することは適切ではない。そうではあるが、やはり気になる。
Pool間の比較をすると、Pool Cがイエローカードなし・レッドカード2枚に対して、Pool Aがイエローカード11枚・レッドカード1枚、Pool Dがイエローカード10枚・レッドカード1枚となっている。Pool Cの各チームがそんなにお行儀がいいとは、とても思えない。原因は、ENG、FRAが同Poolにいることから、ENG、FRAのレフリーが吹かなかったことにあると思われる。
結果として、予選プールの試合でカードをもらわなかったチームは、JPN、SCO、RSA、ENG、FRA、TON(ただし、試合後のCitingでレッドカード(相当)1枚あり)の6チーム。最多は、SAMの7枚。
レフリーの方から見てみると、FRA人がやたら(?)カードを出すのにレッドカードは出していない。一方、ENG人、AUS人はレッドカード率(?)が高い。
1試合平均のカード枚数をレフリーの属性毎に示すと次の通り。
レフリー数 | 試合数 | イエロー | レッド | Y+R | |
北半球 | 7 | 22 | 0.95 | 0.18 | 1.14 |
南半球 | 5 | 15 | 0.33 | 0.13 | 0.46 |
レフリー数 | 試合数 | イエロー | レッド | Y+R | |
Anglo-Saxon | 8 | 25 | 0.32 | 0.24 | 0.56 |
FRA | 4 | 12 | 1.5 | - | 1.5 |
一試合当たりのカード数をレフリー別に見ると次の通り。
2 : ガルセス(FRA)、レイナル(FRA)
1.25 : ガウゼル(FRA)
1 : ポワト(FRA)、ピアース(ENG)、ベリー(AUS)
0.75 : バーンズ(ENG)
0.5 : オーウェンス(WAL)、ペイパー(RSA)
0.33 : オキーフ(NZ)、ガードナー(AUS)
0 : ウィリアムズ(NZ)
なお、レッドカードを出したのは、バーンズ(ENG)、ベリー(AUS)が2枚、オーウェンス(WAL)、ピアース(ENG)が1枚。
厳罰主義・決然主義のENG、AUS。自由放任のNZ。その間にあって、自由に力点を置くWAL、RSA。非アングロサクソンの独自路線を行くFRA。そんな構図が透けて見える。
レフリーには「間違いがあってはならない」。これは万国共通・すべての人々の願いである。
しかし、レフリーはGODではない。事実・現実として、レフリーは間違いを犯す。
この願望・当為と事実・現実のギャップをどう受け止めるかに、お国柄が出てくる。
フランス人は偽善的権威主義を嫌う。
だから、レフリーを尊ばない(?)。レフリーは、常に攻撃対象になる。レフリーの間違いは、激しい非難の的になる。観客にとっても、チームにとっても。もちろん、メディアも容赦なく論評する。
だから、レフリーは「お高く留まって」いられない。ちらつかせるぐらいでは「舐められる」。権威はないけど、権力は持っている!
だから、武器であるカードを、バンバン出す。
そんな歴史を積み重ねて、フランス人レフリーはフランス国内で鍛えられ、W杯で重きをなし、今大会、初めて決勝戦を委ねられた。
代表チーム強化は、よく話題に上る。ベスト8、素晴らしかった。
では、日本人レフリーがベスト8を委ねられる日が、いつかは来るのだろうか?
いいレフリーはどうすれば育つのか、たまには、人びとが熱く議論すべき大切な課題だと感ずる。
令和2年9月26日
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