2023年1月7日土曜日

岡島レポート・2019W杯・備忘録161

 今日は高校 明日は大学の決勝です

強すぎる帝京に 早稲田がどう挑むのか 楽しみです
 
2019W杯・備忘録161
~  Derby ~
 
1224日、「東京ダービー」とも呼ばれるラグビーの試合が行われた! 
結果は「BL東京 17-7 BR東京」とリーグワンのホームページに記載されている。
BL東京」対「BR東京」?コアな関係者以外には理解しようもない符牒のような。
違いは「L」と「R」だけ。「Left」と「Right!? 
リーグワンには「静岡BR」というチームもある。「BR東京」対「静岡BR」、一体何の試合だと思われても不思議ではない。ともかく、「東京ダービー」と呼ぶことにどこか無理がある。リーグワンには「港町ダービー」とかもある。唯一わかりやすいのは「複写機ダービー」(=キャノン対リコー)ぐらいか。
 
エレロ『ラグビー愛好辞典』「Derby」の項は次のようになっている。
『嗚呼!なんて近くて、なんて違ったチーム同士の試合!目の前のムラ、隣接した街区、橋の向こうのマチに対しては、唾棄すべき幾千もの理由がある。不信の起源を誰も覚えていない、祖父の代には嫌ってた、それは慣習と化し誰も変えようとしない。知らない人やエトランジェが憎悪の対象になると思われがちだ、でも、違う、似たものを嫌うのだ。奴らのすべてを知り尽くし・ワシらのすべてを知っている奴ら、ケツの穴、家族、あること・ないこと、毎日勤務先で出会う、でも、日曜には違うジャージを身に着ける。
スポーツにおいて、近くに存在する奴ほど勝たねばならぬ敵になる。奴らによって悪がもたらされる、ピッチ上の許されざる対戦相手となる。人びとは決着を見逃すまいとスタジアムに足を運び、試合後はともに飲み、語り合いつくす。「ダービーマッチ」一般的には、古くから数キロ圏内で競い合ったムラ間のような地理的に近接しているほど、燃える。「ダービー」は近親関係=好奇心に根を持つスポーツ・人類学だ。
「ダービー」という語の由来は、軍隊、あるいは熱くなり過ぎた試合後に殲滅されたムラの名ではない。18世紀、イングランド・ダービー州の隣り合った小教区:セントピーターとオールセインツの間で戦われたsouleの一種に由来する。この戦いの起源は、217年ローマ軍に勝利したChesterno人びとによる勝利後の盛大な祝祭である。後年、勝利の記憶を蘇らせるため、村々が「ダービー」を企画した。年齢を問わない数千人が恐るべき大混乱に憎悪を持って参加する。あるムラが決戦場となり、巨大なスクラムが道をふさぐ。けが人を足蹴にする、胸倉をつかむ、それらに女子供が熱い視線を注ぐ。各チームの目指すのは、岩の後ろや橋の下といった決められた場所にボールを運び・ゴールすることだ。人びとは、力と勇気をもって、対戦する小教区間の日ごろの諍いに決着をつけようとする。
その200年後、バスク地方であれ、NZであれ、イングランドあるいはプロヴァンスであれ、隣ムラ同士は、毎週日曜日、戦っている。まるで未来はこの試合の結果にかかっているかのように。』
 
soule」の項は、こうだ。
『ボールゲームは昨日始まったわけではない… 歴史によれば、2000年前から、アジア・エジプト・モンゴルの草原で、ボールを争奪してきている。フランスでは、10世紀、ノルマンディー地方で最も古いラグビーが行われた記録が残されている:souleだ。2つのムラが対決する、どちらもボール(当時は、木の幹であったり巨岩を用いていた)をゴール(決められた場所:多くは森林の空地)に運ぶことを目指す。森や草原を走り、川を渡り、垣を越え、砂地を飛び、敵の攻撃を避けるためにやぶに潜む… 数日間にわたる戦いの後、定められた二本の木の間に「ボール」を投げる。
換言すれば、規則は寛大だった… 血が流れる、骨が軋む、川が血で染まる、よく見られたものだ。敵を捕獲して雄羊のように使ったものだ。
11世紀、ノルマン人がイングランドに侵入し、彼らの好んだ競技を持ち込んだ。そして、イングランド人がそれを習慣とした!似た競技(camp ballとかhurling over country)が至る所で行われた。こうした大衆的な競技が続けられ、その道筋の先に、ラグビー…』
 
『ラグビーの世界史 楕円球をめぐる二百年』(トニー・コリンズ著 北代美和子訳 白水社 2019年)では、第1部キックオフ・第1章伝統・「◉モールとマルディグラ(告解火曜日、謝肉祭の開幕日)」の節では次のように解説されている。
『このような場面((注)試合の描写がこれ以前に書き込まれている)は、シドニーからスウォンジーまで、ペルピニャンからプレトリアまで、そしてそのあいだのすべての地点で、ラグビーがプレイされるところならいつでもどこでも体験される。しかし、上述したのは近代ラグビーの試合ではない。イングランド農業の中核地域ダービーシャー州アッシュボーンの「アッパーズ」と「ダウナーズ」のあいだで毎年、戦われる告解火曜日の「民俗フットボール」、農村の過去から生き残ったわずかのゲームのひとつである。』(p018
『アッシュボーンは決して唯一無二でも例外でもない。ラグビーの進化上に見られる先祖返りのように、コーンウォール最西端のセントアイヴスからスコットランド北岸沖のオークニー諸島州都のカークウォールまで、今日でも類似の試合が一ダース以上プレイされている。サッカーでもラグビーでもなく、ボール、ゴール、手、脚を使う20世紀以前のすべての団体競技と同様に、これらのゲームは単純に「フットボール」と呼ばれ、現在、歴史学者は「民俗フットボール」としてこれに言及する。
この形のゲームはまたヨーロッパでも相変わらず見ることができる。民俗フットボールに類似する試合についてフランスで書かれたもっとも古い文書は1147年まで遡る。「ラ・スール la soule」は、「シュール choule」または「cholle ショール」などとしても知られ、フランス北部のノルマンディ、ピカルディ、ブルターニュで20世紀前半までおこなわれてきた。』(p019
『キリスト教世界全体で、告解の三が日(四旬節の初日「灰の水曜日」前の三日間)は道楽と放縦の祭である。スポーツやゲームーパンケーキ競争から闘鶏まで多種多様-が祝祭の重要な一部だった。告解の三が日にフットボールの試合が開催されるとき、村全体がその日のために仕事を休み、男たちと若者たちの巨大なスクラムがボールをゴールにもちこもうと悪戦苦闘した。通常の慣習と権利は一時的に停止された。1790年代にスコットランドのミッドロージアンでおこなわれたように、ときおり女性も加わった。そして現代とまったく同じように、アルコールはつねにその潤滑油だった。
現在では、最高水準のスタジアムがあり、高給を支払われるアスリートがいて、複雑なルールがある。しかし時間と場所をはるかに隔てているのもかかわらず、近代ラグビーは中世のご先祖さまたちの伝統のなかにしっかり根をおろしている。』(p019
 
 
もちろん、スタンドが埋まり・絶叫が飛び交う熱い試合を待ち望んでいる。戦いを盛り上げるため≒観客数を増やすために、いろいろな工夫がなされるのは意味があるのだろう。だからといって、「安直な」ことでは残念ながら人びとを惹きつけることができまい。近年、いろいろなスポーツで「ダービーマッチ」と称する試合を耳にするようになった気がする。しかし、因縁・歴史がなければダービーは成立しない。因縁は一朝一夕に生まれない。
 
技を競うあうのに理由はいらないのかもしれない。しかし、対抗戦文化と選手権文化は異質な気もする。そして、地縁・血縁から生ずる人的集団と近代組織という人的集団も異質である。いろいろな要素が混在して現代スポーツは成り立っている。そのルーツを探りながら「いいとこどり」して盛り上げてゆく、伝統を見出してゆくというよりも伝統を新たに創造する、そんな現代社会の写し絵が現代スポーツなのだろう。
 
昨年12月には、早明戦が二度あった。12月第1日曜日の「伝統の」早明戦と125日の大学選手権準々決勝の早明戦。ラグビーの歴史から見れば、前者の早明戦に重きが置かれるべきなのだろうが、多くの人びとは後者の早明戦の結果を重んずるだろう、なんと言っても大学日本一がかかっているのだから… どちらが重いのかなどという価値付け・評価すること自体がナンセンスなのかもしれないが。ダービーマッチ的(?)なのは前者=毎年同じ日に行われる対抗戦としての早明戦だ。とはいえ、おそらくどちらの試合も同じような観客層でもあり、今日的には前者が後者の練習試合化するのも避けられないのだろう。ラグビーを文化にするって、なんとなく望ましい気がしているが、そもそもこの国の文化自体が移ろっていて、その文化に根差すにはラグビーも移ろっていかねばならないのかもしれない。くれぐれも「虚ろ」にならないように。
 
 ラグビーのルールが定められて、テストマッチが始まってから1世紀あまり、ラグビー界の「長」たちは、頑なに対抗戦文化を墨守し・選手権文化を唾棄していた(だから、彼らはW杯構想を却下し続けた。フランスは「選手権」を行っていることから六か国対抗から破門されたこともあった。)。そしてアマチュアリズムを固持しプロ的なものを排除していた。こうした人びとの感覚からすれば、今日のラグビー界は堕落したものと映るだろう。
 
ともかく、W杯の各試合、そんなことを持ち出す必要もない。W杯は、格別なお祭りだ。4年に一度の年がはじまった。
 
令和517

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