2024年4月20日土曜日

岡島レポート・2019 W杯・備忘録 220

学歴詐称も酷いけど 重要選挙公約違反は 許せない(はずだ) なぜか メディアは 後者は取り上げない        世の中 不思議なことだらけ…
 2019 W杯・備忘録 220
〜 M44 RSA/FRA 12 〜
 
WRSA戦敗戦直後の記者会見でキャプテン・デュポンはレフリングを批判し、HC・ガルティエはその点に関してコメントを控えた。ガルティエは、試合に関して沈黙し続け =人びとは苛立ち かつ 多くはレフリングを敗因としていた。やっと 28日後 記者会見を行い RSA戦を語った、が、敗因を語らなかった。今年春の六か国対抗に関しては 終了後 4日後に 記者会見を開いた。見つめ直す内容の重みを反映しているようである。
ガルティエは 常々 「HCは教育者の役割も担っており・レフリー団をリスペクトして行動・発言しなければならない、と考えている。だから他のHCがツイッターなどでレフリー批判を展開するようなことを私は行わない」と語っており、ここまでの4年間 レフリング批判は皆無だった。それはそれで「一つの立派な考え方」ではあるけれど、では、敗因は何か?を明快に説明しておらず、人びとの「苛立ち」が納まっていない。(もちろん敗因なんてなくて 試合結果は「たまたま」あるいは「運」などという考え方もありうる。しかし 敗因はあると考える人びとが多数派であり そもそも これからの強化策を構築する上では敗因・分析は不可欠である。)
今年の六か国対抗では 明白なレフリングミスで勝ちを拾う(=SCO戦・ENG戦)・負けが引き分けで終わる(ITA戦)ことが続き 勝敗に占めるレフリングの重さが再認識された。六か国対抗後の会見では、「オキーフと話す機会があり、彼は「あの試合の笛は満足できるものではなかった」と語った」とも紹介していた。であれば、レフリングミスは事実としてあったわけで、それが「敗因」でないとすれば、何が敗因だったのか、自らの言葉で明確に語る必要がある。それは代表HCの責任である。
2023W杯は フランスにとって二度目の自国開催であった。前回開催時(2007)は ベスト4止まりであり、当時のHC・ラポルトが協会長になり 総力を挙げて + 各クラブ(=各選手の雇用主=各選手の報酬の支払元=長いシーズンで代表に選手を供出するのはクラブにとって痛手)の協力も最大限に取り付けて今回のW杯に臨んだ。にもかかわらず 結果は 過去最低のものでしかなかった( 10回の大会で 決勝進出3回(198719992011)、ベスト4199520032007)、ベスト8(199120152019+今回))。クラブ側の苛立ちも納まっていない。
2007大会準々決勝FRA/NZでよもやの敗北を喫したNZHCが帰国後レフリングミスを何点か指摘し HC続投を勝ち取り・4年後の大会で優勝した「故事」を思い出す。ちなみに ㈰ベスト8止まりの成績でHC続投し ㈪次の大会で優勝したのが 2003年大会のENG2011年大会のNZ。今回ベスト8HCが続投したのが FRAIRE。ガルティエとファレルは有資格者となった!? 4年後 どちらかが笑っているのだろうか。気になるのは ガルティエの元の雇用主:トゥーロンとモンペリエのオーナーが 異口同音に 「がガルティエは ここ一番の試合で勝ち切れないHCだ」と 就任時から公言していることである。
 
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「たら・れば」が 山ほど出てくる。あのボールの弾み方が違っていたなら・レフリーがきちんと見ていれば・プレー選択(パスなりキックなりランなり)が違っていたら… 数限りなく出てくる。
試合は一つ一つの現実にピッチ上に出現したプレーが積み重なって形成されてゆく。ABC→ … XYZ というように。たとえば BB‘であれば その後のC以下は出現しない(=違ったものになっている)。
たとえば この試合 キックオフをRSAは定石の両サイドライン際ではなく・真ん中付近に蹴った。仮に サイドライン際に蹴っていれば 違った試合展開になっていた、とか、些細なことであっても 事後の展開を変える。5分のエツベツの「ノックバック」時 そもそもデュポンのパス選択が違っていれば とか 7分のジュロンの孤立・ターンオーバーを易々と許したプレー(老獪な選手であれば ボールを離さずに・ノットリリースのPを取られていただろう) とか 試合内容⇒結果も違っていたはずだ。
ビッグプレーも 直前のプレーの積み重ねの状況下で生ずる。であれば 直前の些細なプレーが違っていれば それだけで 当該ビッグプレーも現出しなかっただろう。その意味で 「因」に 大小はないのかもしれない…
 
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ラグビーの試合を観戦し、のち、鑑賞する!
スポーツは「観戦」、芸術作品は「鑑賞」するものだろうか?
『鑑賞』は広辞苑で「芸術作品を理解し、味わうこと。「名画をーする」」と解説されている。では ラグビーの試合を『鑑賞』することは意味あることなのだろうか? ネット検索をかけると「美術作品の鑑賞のコツ」などという項目も出てくる。
ラグビーの試合 ライブ・オンタイムで見ているのは 勝敗の帰趨の定まらない「戦」いである、が、一旦ノーサイドの笛が吹かれれば・厳然たる勝敗の決着がついた作品が現出する。ノーサイドの笛が吹かれる=作品が完成する 傑作もあれば駄作もある。物語・小説・芝居・映画などなど 傑作は見返すたびに新たな驚き・感動・発見を齎す。だから 作品鑑賞というのだろう。ラグビーにおいても 傑作は存在するし・鑑賞に堪えるものもある。
RSA/FRA戦 ライブでテレビ観戦した時は レフリーにブーイングし続けた。「1点差」の傑作として見返すと いろいろな「因」が見えてくる。おそらく 見返すたびに 違った「因」に気づくであろう。

令和6420 

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